いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/04/27 no5

 寺尾紗穂さんを聴きながら絵を描く。しばらく聴いてた。


寺尾紗穂 - 楕円の夢

 


寺尾紗穂 - たよりないもののために

 無性に泣けてきた。今日はそんな気分だったのかも。どこかで悲しいことを隠そうとする。だけど感情と関わるのは自分にしかできないことで、都度、何度も関わり続けようと思う。たよりないもののためにの「演じることが全てなんてそんな真実いらない」って歌詞がいつも刺さる。嘘をついて、隠そうとして、それでもなんとかやれないか繕いながら出来ないかとどこかで思う時に、そうじゃなくてもいいと思えるというか、なんというか。

 なんだか悲しみの量が多いのかもしれない。これは癖なのか、生まれつきなのか、小さいころからよく泣いていた。年齢を重ねるにつれて、涙を流すことをしないようになったが、今はよく泣く。涙は湧き水で何度でも溢れて、なにかが生まれるための源泉のように思えたりする。だから無視しちゃいけないように思うのだ。

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 昨日はうみらのやってるオーセンティック・ムーヴメントに参加してた。

www.umira.net

 これもzoomで。いつもは一つの空間の中で生身の人がいて、そこで踊るのだけど、昨日は各々の家や空間で地域も様々な人たちと一緒に踊ってた。岩手だったり、ドイツだったり。家の中、部屋の中で踊るのはそんなに広くスペースも使えないし、体の動きだけを求めるとどうしても窮屈で、物足りなさを感じてしまう。最初の方はやっぱりそんな感じだった。窮屈感や閉塞感が体の動きにも現れているように思えた。何度かワークを繰り返すうちに最後ドイツにいる人一緒に踊ることになった。踊ると言っても、目を瞑って踊るから相手の動きを見るわけでもないし、あくまで自分内側の感覚や意識から生まれる動きを楽しんだりする。その時僕はドイツまで行きたいなと思った。実際に行ったこともないけど、ドイツって気になっててずっと行きたいなーとは思っていた。だから一緒に踊れるのが嬉しかったし、実際に行こうと思った。踊り始めた瞬間に鳥の声が聞こえた。そのまま意識を広げた。体の動きは大きくない。部屋にいるままだし、外にも出ていない。だけど、僕はどこまでも行けることを知っていたし、意識は広がっていって、どんどん解放される感じがした。別に自分を縛り付けてるわけでもないが、どこかで窮屈にさせてるところがあって、それが解き放たれる感じがした。踊った後には毎回シェアの時間がある。踊った人から自分の味わっていた世界について、感覚について話す。次に見ていた人も同様にシェアする。評価とか、明確な答えを語るわけじゃない。ただ味わっていた世界をシェアする。そうやって話してると不思議と踊っていた、見ていた人同士が似たような世界を味わっていたり、体験していたりする。僕はドイツにいて、相手もきっと日本にいたのかもしれないし、そのどちらでもない空間で混じり合っていたようにも思えるし、鳥の声もお互い聴いていたりした。言葉を交わしたわけじゃないし、実際に同じ空間にいたわけじゃない。現実は家の、部屋の小さなスペースで動いてるだけだ。だけど僕たちは同じ空間にいて、その体験が僕にとってはいつも至福だったりする。どうしたらこの時間を、空間を、もっともっと味わえるようになるのか、そんなことばっかり考えてる。