いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

鍋食って忘れる。

 腰の辺りが少し重たい感じだったりする。せかせか動き過ぎていたり、イライラしている感覚だったり、周りを拒絶してるような感覚だったり、まあ冬が近づいて来たからみたいなこともあるかもしれないのですが。そんなわけなので極力自分の感覚に目を向けるというか、なってみるというか、流れてみるみたいなそんなことをする。意識の波に乗るみたいなそんなことをして、自分の感覚、身体に戻ろうとしてる。

 ここ数日は書き物が褒められて嬉しい気持ち。書いておいたもの、目につくところに置いてあったものが人目に触れて何か交流が生まれたり、意思疎通が出来て、その人の中の感覚とか言葉に反応して生まれるやりとりって嬉しいことですねと思うですね。

 今日はだいぶ暖かかった気がする。今は雨が降って来て、瞼とか頭が少し重たさを持ってるような感覚。

 久しぶりにアルバムリーフ聞いてる。音楽があると良い。ギターも静かに弾いたりする。ひとつひとつっていうのがなんかできるようになって来た気もする。先を考えるのでもなく、今あることをひとつひとつ、体の感覚とか、声とか、そういうひとつひとつを味わったりする。

 自分の声をしっかり聞いてみる。どこから出てるか、何からその声が生まれてるか。その声は体の感覚と一致してるかとか。そういうことを丁寧に繰り返して、観察する。人から発する声も聞いたりしながら。そんなワークが日曜日は心地よくて楽しかった。

 「虚しい盛り上がり」ってなんかメモしていて、日常的な声や、やりとりやコミュニケーションが体から離れてるものだとただ虚しさが残ったりする。虚しいと感じてるのは、感覚が取り残されてるからで、だから残ってしまったことを虚しいと言ってる気がする。このどこにも行き場の無くなってしまった、交流のなかった、感覚がひとりぽつんとしてて、暴れてるわけでもないのだけど、否定的な声を反芻する。そうやって感じて、否定を否定する。居残りしてる感覚を味わうのは目を閉じている方がやりやすいように思う。目を瞑って、流れてくるもの、思考、身体感覚、もぞもぞ、声、全部内包する。

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 手を動かすことをやめないこと。続けること。神様が見てるってことはつまり自分自身が見てるってことかね。

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 なんか書こうと思ってた気がしたのだが、miiさん作ってくれた鍋食べたらすっかり忘れてしまったのではよ寝ることにする〜。