いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

梅雨なのか夏なのか、身体にあるのは夏なのだ。

 梅雨が明けたのか明けてないのかわからないが、気分はすっかり夏になってきてて、夏になるともわーんとした暑さと気だるさみたいなものが立ち込めてきて、少し切ない気持ちになったりして、そう言えば夏って毎年物悲しいなぁとか口に出したりする。

 蝉が鳴いていて、畳の部屋で障子から差し込む光と、大きなテーブルと、引き出しの漫画なんかが見え隠れして、そこで横たわって退屈そうにしてる。やることがなくて眠っていて、何か待ちわびているような感覚になって、それはもしかしたら誘いの連絡かもしれないし、特別なことが起こるんじゃないかって期待してるんだけど、それといって何かが起こるわけじゃなく、あまり得意じゃないプールに何度か行って行きたくなくなってやめてみたり、朝早起きしてラジオ体操に行ってみようとか思うが、結局起きれなくてやめてしまったりして、だけどヨーヨーとかは家の中でできるからなんとなくやってて、検定があれば家の近くのダイエーおもちゃ屋さんに受けに行って、ループザループなんかもクリアして1級になったりして、だけどやっぱりゲームだよなーと思うんだけど、兄や父が先にゲームをクリアしてエンディングを見ちゃうからそれ以降はやらなくなって、そんなふうに途中でやめてしまうことがたくさんあった。

 兎にも角にも、何かを取りまとめると言うよりは逐一体にあるものを書き出したり、描き出したり、写真に収めたりして、そんなふうに日々のイメージだとか、目が合ったこととか、心が動いたことをひとつひとつ集めてくことが行われてて、それがなんになるのか、なんのためなのかとかはよくわからないけど、時折何かを取り違えて嫌になったりして、例えば何かいいものを描きたくなって、絵を描こうとしてだんだん嫌になってしまったり、写真もなにか特別な瞬間を撮ろうとして無理に何かを探し出そうとしたりして、だんだんつまらなくなっていったりする。特別なことをしようとすると大抵うまくいかなかったり、期待していた特別はどこにもなかったりする。いつもなにか特別なことが起ればいいとか、ドラマみたいな展開があったらきっと楽しい人生が訪れるはずなのにとかそんなことを思いながら眠っていて、またなんだか間延びした昼間の時間が訪れて、暑い暑いとうなだれながらかき氷とか、きっとスイカが好きな人はスイカを食べたりするのかもしれなくて、あの時好きだった、ミスドに売ってたクッキーアイスがまた食べたいなと思ったりしながら、夏を感じたりする。

 今日はうみらのオーセンティック・ムーヴメントがあって定期的に参加していて、また新しい顔ぶれみたいなのもあってとても楽しいなと思った。特別なことを起こそうとしたり、何かに期待したり、それこそ劇的な瞬間に出会いたいと強く願えば願うほど遠ざかって行くんだろうなと思い、だけどどこかで期待したいし、楽しみにしたいし、そういうことがあってほしいと夢を見てしまうことはあって、じゃあそのためにがむしゃらに動こうとすると、ひとつひとつが味わえなくてこぼれて行くんだろうなと思って、劇的なことを期待していない時ほど、何かが起きていたりして、劇的なことを起こしたいと期待するのは、きっと自分の中にある下心のようなものかもしれず、よく思われたいとか、何かが起こせる人でありたいとか、そんな自意識なのかもしれなくて、だけど何も期待せずに、ただひとつひとつ起きていることを、浮かび上がっていることを感じている時、その身体に向かっている時、見ている人は自由に想像するし、何かを受け取っていたりするし、そんなふうに動いたり見たりする関係、言葉を交わす関係ってとても嬉しいし、楽しいことだなと思う。

 晩御飯は中華風の冷やしそうめんにしようかと思っている。梅干し入れようかと思う。なんだか麺類と梅干しにはまっている。昨日のお昼ご飯も冷やしカッペリーニを和風な感じにして、紫蘇や梅干しや入れたらめちゃめちゃ美味かった。紫蘇は玄関で育っているものを摘んで刻んだ。庭でちょっとした食材が取れるのってすごくいいなって思って、少しだけそうやって手で摘んで入れられるのってとても豊かな感じがして嬉しい。

 何かを表に出そうとしても何も出てこなかったりして、今自分の体にある感情とか声とかをひとつひとつ感じてることで、表出される濃度みたいなものを変化していければ良いなと思った。なんだかリラクゼーションと表現って遠いところにあるようで、自分の中にどちらもある感じがして、どちらもやることに意味を持たせようとしてしまうところがあって、だけどなんらかの癒しが起こる時って、その触れたい感情や感覚が現れている、目の前で起きていることのように思って、だからできるだけ自分のことを空っぽにしたいし、それでいて自分の体に起きていることをもっともっと感じ取れるようになりたくて、それらがもっと素直なままに現せるようになっていきたいとなんだか思った。

 日々、いまある瞬間に出会って行けたらよくて、劇的なことが起こることを望んでいる僕がいることはかき消す必要はなくて、そのひとつひとつが劇的であることに気づける感受性を育んで行きたいのだと思う。退屈していた時間だって、そこに身を浸してみたらゆっくりとした、現実とはかけ離れた速度があってそこで身体は動き出すし、いずれまた違う速度に出会って、さっきまでの自分じゃないみたいな世界がそこには広がっていたりして、いつまでも終わることないその意識の世界や感覚を退屈だなんて言わずに、味える余裕がいつだってあれば良いなと思う。

 季節や気候で体から出てくるイメージは変わってきたりして、どれもこれも今あるものとして味わって見たりしながら、作戦会議してやってくのですね、そうですね。