いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/10/30

 何から書いたら良いのかよくわからなくなっているところがあるのだけど、ひとまず10月16日の即興劇「すいめん」終わりました。僕のフィルム写真とmiiさんの音楽を組み合わせて、劇空間が想起されるようなものが作れたらいいなと思い作ってみた。今回、劇中に写真を撮ったりしていて、どうなるだろうかって思ったが、やっぱり撮ってみてよかった。観てくれた人がこの動画をみて、水面の写真がその時にしか表れないものが出ていて、この世を生きているのは自分なんだ、とも思った。と、感想伝えてくれて、なんだか嬉しかった。

 最近どうだった?みたいなことを話していて、うまく言葉にできない自分がいて、というよりはもうそのことは終わってしまったことだったりして、一つの区切りもついたような気がして、掘り返すのが難しいのかもしれなくて、だけどじゃあ何があったのかを伝えるとするなら、難しいと感じることや、まとまらないまま進むことだったり、それでも立ち止まったりしながら手を動かすことだったりするような気がして、だから今もそうしているんだと思う。悲しかったり、ゆらいだりしていることがあるのかもしれないし、それでも自分が楽しいと思える感覚や、喜びに満たされた時間に浸されてくというか、そういうことを今も、そうしてるんだと思う。

 ここ最近はダンスの稽古が頻繁にあって、あと二週間後に本番だったりする。茅ヶ崎の市民文化祭的なものらしく、今年で3回目。構成みたいなものはありながら、即興で踊らせてもらえる部分が多く、都度都度、実験というかとても面白い。僕は即興で踊ることが好きなんだろうし、芝居もそうだったりする。元は覚えられないっていうところから始まってるのだけど、覚えようとするとダメだけど、その場に居れるようになると自然と動ける、発することができるんだろうなとなんだか思ったりしている。子供もいるし、初めてダンスをするっていう人もいる。そういう中で、経験とか経歴とかも違う中で、だけどどうしてか、一緒にそこで繋がってるみたいな感覚になれることがあって、それを感じようとしていて、それは音楽なんだろうし、空間なんだろうし、その隙間だったりするのかもしないし、言葉とか詩とかが入り込んだりしながら、そこにある体と人と一緒に居て、その中で出会うこと、感じること、発見していくこと、そして離れてしまうことを繰り返したりして、そう思うとすごく集中してるな、没頭してるなと思って、つまり楽しいのだと思う。

 ふとした拍子にフィルムカメラが落ちてしまって、レンズを保護するというか閉じる前面シャッター的な部分が取れてしまった。ちょっと割れてしまって、シャッターも閉じ切らなくなって、つまり壊れたのだが、安く買えたものだし仕方ないよと言い聞かせる自分とか、どうしてお昼ご飯なんて食べようとしてこのお店入ったんだ、まっすぐ家帰ってたらこんなことにはならなかったのにとか、なんかつまり感情迷子で、言い聞かせようとしたり、悲しかったり、怒ってたり、喪失感だったり、どうしようどうしよう、いつもこうなってしまう、ものが壊れてしまうことが悲しいとか、大事にいつも扱えないとかそういう悲しみというか、どーせどーせみたいなことをわんわんにゃんにゃん駆け巡るのだけど、購入したカメラ屋さんに、さっきこんなふうになってしまって修理ってできたりするんでしょうか?と聞いたら、もう割れちゃってるから修理は難しいのだけど、このレンズの前にあるシャッターみたいなの取っちゃいましょうか、割れちゃった縁は接着剤でつけられると思いますよ、見栄えは今よりも良くなるかと、と言われて、お願いしますと泣きつきながら、お代は?と聞いたら、いいですいいです、すぐできちゃうんでって言われて、ありがとうございますと思いながら、本当に大丈夫だろうかと疑心暗鬼な心の狭さがかいま見えるのですが、私って本当にクソ野郎ですよね、って思うといいますか、最近そういうところも直そうとせずに、やっぱりクソ野郎です的な所存なんですが、それでもすごく丁寧に取り付けてくれて、どうしてもぽろぽろ外れちゃうところはテープで固定しましたってやってくれて、それはそれでなんか可愛らしくて、感謝の気持ちと、改めて丁寧に扱おうと思った今日この頃。

 丁寧さっていうのはきっと伝わるんだろうなって思って、誰かに丁寧に扱ってもらえないのは、自分が自分に対して丁寧さがかけるからなんだろうなと思い、そう思うともっと丁寧に、自分と関わっていけるんだろうなと思う。そういうことを言葉にできないままになってて、時間の経過だけが、流れだけが早くて、立ち止まるにしてもどうしたらいいんだろう、うまく言葉でてこないとか、上手に書けないだろうとか言って、また堰き止めてしまうよりは、そのままを現して、いまの自分を知っていくって大事だなと思ったのだ。

 なんとなくそう思えたのは、今日ハロウィンのお菓子もらって、もらう時になんか呪文となえるらしいのだが、詳細は忘れてしまって、僕って名前を覚えるのが苦手で、間違えちゃいけないなと思って呼ぶの躊躇してしまうのだけど、今日もらったふくろに"みぞえさんへ"って書いてあって、なんか間違えてることよりも何よりも、書いてくれてることとか、伝えてくれてることとか、そういうことがそもそも嬉しくて、だから間違えちゃいけないとかこわばるよりも、素直なまま伝えたり、書いたり、口にしてみたりすることを怖がらなくて良いのだろうし、この袋もらえたおかげで出来ている今なんだろうなと思った。

お菓子も、書いてくれたことも、絵も可愛くて嬉しかったのでした。ありがとう。