いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2023/03/20

 ここ数日切り貼りして絵を描いている。コラージュなんだと思う。手の感覚を養うことを考えた時に、好きに素材を破いたり、ちぎったりすること、糊を手につけてつけるとかそういうことが感覚的な喜びに繋がるなとなんだか思て、やってみたらとても良い感じがしている。何か意識的に形を作るわけではないのだけど、たまたまあったものを貼ってみることで少し浮かび上がるような感覚も視覚的に喜びがあったりして、はっきりしなかった平面が、少し立体的に動き始めるようなそういう効果があるような気がして面白いし、見ていて嬉しい。多分絵が描ける人はそういうものを描くんだと思うのだが、そういう技術的な部分に至らないというか、どちらかというと絵画というよりは工作に近いのかもしれず、それでも自分的には絵を描いていると思うのだから、それはそれで良いのではないか、なんて思うのだが、もちろん自信満々にはなれず、こんなんで良いのだろうかみたいなそういう申し訳なさが、全くもって謎の申し訳ないが浮上してきたりするのだけど、まあそういうことは気にせずに楽しい回路を見つけてやっていけたら良いんじゃないかと思っている。

 今月に入って振付のある踊りをしているのだけど、基本的に即興表現しかやってこなかったし、それを好んでいたからそうしたのだけど、どこかで何かを覚えてやることはできないとかそういう苦手意識みたいなものを持っていて避けながらやっているような感じもあって、だから飛び込んだってわけじゃないのだど、たまたま振付のある連続のワークショップだったという感じで、それでも落ち着いた気持ちでいれる場なので行っているのだけど、当初はかなり否定的な声が頭の中から聞こえてきて、結構根深いんだなーと思ったりした。振付があるのである種の正解みたいなもの、正しさを求められるような感覚になり、なんだか小学校の時のプール、鉄棒、縄跳びなどなど苦手な運動が多かったので、そういうできないことを強制的にやらされる感覚や、ましてやそれを見定められ値踏みされる、成績をつけられることが、とても絶望的でいたたまれないみたいなそんな気持ちがあることに改めて気付き、完全にそういう視点がなくなったわけではないのかもしれないが、なんだか楽しいところが見つけられていることがとても良いことな気がして、評価や形を優先するというより、それは諦めてるわけじゃなく、今やってることは否定的な声が出てきやすかったり、体が動かなくなるくらい緊張しやすいことなんだと認識して、できたところを少しずつでも自分で見つけたり褒めたり、励ましたりしながらできること、もちろん場を作っているsoraの伊藤さんの励ましなんかもありながら、苦手意識のあることから楽しさや喜びを抽出できるようになってきたのとても健康になってきてる気がする。なんというかイヤイヤ期のまま遠ざけてるのと、冷静に評価できる自分としてやるやらないを選択できることはだいぶ違うことのように思うのだ。イヤイヤ期のまま遠ざけてること、それは結局外からの視点、評価だったりするのだが、それらを気にしすぎてやらないまま、いつまでも放置されてる事柄がとても多いように思う。評価や、判断をすることをやめてほしいと言ったところでなくならないものであるような気がするのだが、そもそもの部分はきっとその評価を自分自身が受け入れてしまうことにあって、つまるところ誰もぼくの出来ないと感じてる部分を見て、君は生きる価値がない、踊る価値や、創作する価値がないなんて言わないし、むしろみんな優しいので褒めてくれたり、しっかり作品を見てくれる人ばかりなのだが、結局、幻聴みたいなもので、誰も口に出していないこと、言ってないことを勝手に頭の中で響かせて言われてるような気になってるというだけなのである。つまりそういういじめをしてるのは自分だってことなのだが。

 僕の中にいるいじめっ子も僕のことをいじめたいわけじゃなく、致し方なくそうしているのだと思うのだが、それを好き勝手にやらせとくわけではなく、何処かのタイミングで僕はしっかりそういうことをする人に対してしっかりと怒って、もうやめろと伝えた体験があった気がする。だいだいそういうの外側に現れるので、自分の感情をそのまま吐露したり、時にはやりすぎじゃね?ってくらい感情出してしまったりもしたのだど、そういう失敗を繰り返して、なんだかだいぶ穏やかに世界を見渡せるようになってきてると思うのだ。それでいじめっ子とやらはきっと焦ってたり、頑張らなくちゃいけない、成果を出さなくては、出来なきゃいけないとか、そういうプレッシャーに苛まれてるような気がして、なんだかそうやって過ごした子供時代を徹底して癒していく方が良いだろうし、そういう戦いから降りていくことはいつだって意識をしないとまた元どおりだったりするから、最近口の中に口内炎できたり、よく噛んでしまったりするので、美味しご飯ゆっくりよく噛んで食べて、お風呂でゆっくりして、早く寝て、自分のこと、生活を大事にしていけたらよいなと思うのでした。

湯河原にはまっている。

2022/12/08

 最近のことを少し話してみようと思うのですが、家の掃除をしている。少しずつしている。だからあまり進まないで、結局物が置きっぱなしになっていたりして途方にくれたりする。だから少しというか、無意識ではかなり焦っていたのかもしれない。次に進まなきゃとか、変化させないととか、そんなふうに次へ次へと向かう思考をなんとかいまやっと、すこし落ち着きを取り戻したというか、すこしこうやって創作に、書くことに向かうことができるようになっているので、そのことについて少し話してみようと思っている。本をしまったり、服の整理をしたりしながら、どこかずっと気になっていたのは描きためた絵のことだった。押入れにこの何年か描いていたものがどっしりとしまってある。なんというか掃除をするということはその絵を見なくてはいけなくて、見なくてはいけないというとなんとも微妙なニュアンスなのだが、心のどこかで、こんなに絵を描いたのに現実は何も変わらなかった、という虚無感というか、見たくないその切実な罪悪感みたいなものが溢れてきているのかもしれない。家はそんなに広くはない。東京に住むよりは少し広いかもしれない。そんな中で、描きためたものが山積みになって、それが誰か人目に触れるでもなく、いや実際はInstagramとかにあげたりすることもあるし、誰かに見てもらうこともあるのだろうし、展覧会だって年に1度はしたり、今年は演劇の中で絵を使ったりして、そうやって見てもらったりする機会はあったのだろうし、だけど、結局どんどん溜まっていくこの排泄物を一体どうしたらよいのかわからないままここまできてしまって、だから立ち止まらなくちゃいけないと思って掃除を始めたのかも知れないし、それで絵を描いていたスペースには荷物がかさばって、絵の具を使って絵を描くことができなくなっているのだが、それでも机の上で描けるくらいのサイズで、ちょうどポストカードくらいのサイズの紙があったので、余っていた端材をそのサイズに切って鉛筆だけでのドローイングをして、結局どこか場所を見つけて、そのサイズ感にあった絵を毎日描き続けることになって、またそうやって絵は溜まっていくのだが、じゃあこれどうしたらいいんだろうといつも頭を抱えてしまう。

 お昼ご飯はパンにしようと思い、買いに出かける。少し物件も見たいなと思い、不動産屋さんの前を通りながら歩く。多分何か探してるわけでもないのかもしれない。結局本屋さんに入って、雑誌を立ち読みする。ポパイのコラムで坂口さんが書いてる文章を読んですごくホッとする。管になっていることみたいな記事で、そうだそれでいいんだよなとなんだか肩の荷が下りた感覚があって、力が抜けた。何かしようしようとここ最近ずっとしていたのかもしれない。このままじゃいけないと現実を変えたいとなんだか必死だったのかもしれない。それでいて、溜まっていく絵を見るのが怖くなっていたのかも知れない。結果が出てないと思っているのかも知れない。それは売れることだろうか?お金を稼ぐことなのだろうか?お金が稼げていないことも後ろめたいのかもしれない。毎日毎日描いて結局一銭にもならない。いや、実際には絵を買ってもらったことはあって、一銭以上にはなっているのだが、過去のことは忘れてしまっている。なんだか八方塞がりのような気分になっている。それで結局どうしたいのかと思った時に、管になりたいと思うのだが、ただ通り抜けていく場所として体を使いたいのだと思う。ダンスでもそうだろうし、芝居するときだって結局そうなのかも知れない。絵を描くこともそうだ。ただ動き出すことで現れるものを、それらを創出し続けることでよいのだろうなと思った。もしかしたらこれから先何も変わらずに、このまま死んでいくのかもしれない不安に襲われるのだが、もしかしたらそれでもいいのかもしれない。死ぬまで作り続けて、誰の目にも触れずに消えていく。それでもいいのかもしれないといいながら、多分それじゃ満足できないだろうと思う今があって、きっともっと人とコミュニケーションを取りたいとのだろうと思う。それは多分会話的なものではないのかもしれない、誰かの作品を見ている時に感じる、思い巡らす、あの時間のことを言っていて、そういう時間を、もしかしたら直接的ではない、それでいて、内に働きかけるようなそういうコミュニケーションをいつも作りたいと思っている。何かその立派であると頭に浮かべているその立派さは一体誰が作った立派で、自立なのだろうか。果たしてそれは自立しているのだろうか。社会から生まれた妄想に、幻想によっかかってはいないだろうか。幸せな家族像やこうあるべきとされる男性像だとかそういうあやふやでいつ消えてしまうかもわからない偽装にいつまですがりたいと思うのだろうか。そんなことに頭をいっぱいにさせているくらいだったら、苦しくても毎日描くことだったり、体を動かすことだったりし続けたらいいし、どうしてすぐに作品みたいなものを作ろうとするのか、そうやって形式張ったことばかりが素晴らしくて、管であることは否定されるのだろうか。心地よいのは、体が軽くなるのはどちらだろうか。またすこし目を覚ましてやっていくような気がしました。

今日は双子座の満月ですね。うららがくれた柿。

2022/12/01

 無印良品に下着類を調達しにいく。武蔵小杉で乗り換えだったのでグランツリーに寄ったら、なんだか店内の半分が閉鎖されている。改装しているようだったのだが、ちょうど衣料品コーナーが改装中。嘘だろと思いながら、店内をあちこち探して見たのだが、もしかしたら抜け道から衣料品コーナーに入れるのではないかとか、別の場所に移動してるんじゃないかとか思いながらウロウロ。そのまま帰ろうかと思ったのだが、欲しいものは決まっていたので店員さんに声をかけてみる。靴下が欲しくて、あ、あの実はパンツも欲しくて今って買えないのでしょうか、と聞いてみたらちょっとこちらでお待ちください言われ、おや、もしかしたらなんて期待しつつと、どうして意を決してパンツが欲しいと言ったんだと若干恥ずかしくなり、下着類が欲しいですって言えばええやんとあとあと思いつたりするのだけど、そんなわけで1分ほど待機。先輩らしき人と一緒に戻って来て、取り置きはできるのですがと言われ、どうやら衣料品の販売自体が今のシステム上できないようだということはなんとなく察知して、それでもなんかもうとにかく、靴下とパンツとレギンス的なものが明確に欲しかったのと、もはやこのお姉さんチョイスの靴下パンツレギンスでええやと思ったので、もはやサイズだけお伝えするので見繕って持って来てもらえませんかと最後の粘りを見せるも、僕の声はお店の決まりごと的なものを突破できずにあえなく退店。ただ、なんというか最近少しだけこういうことをやってみているのでして、要望を通すために論破する的なやつじゃなく、ただ自分の望みを言ってみるってことだったりして、ファミマでゼリーを買うときとヨーグルトを買うときでは欲しいスプーンが違くて、ゼリーの時は白っぽい大きめのスプーン。ヨーグルトとの時は小さめの透明なスプーンをもらうようにしてて、それはどうしても反対のスプーンが出てくることが多々あったので、それだと食べづらくて体が心地よくないので伝えるようにしてみた。些細なことなのだが、要望をすんなりと伝えてみることで体の心地よさは保たれたりして、小さいことだがとても大事だなと思いつつやっているのですが、とにもかくにもお腹空いたのでつけ麺を食べることにしたのでした。

 ヤさんのゴロゴロりに行って、少人数だったので体を実験しながら踊ったりゴロッとしたりしていたのだけど、体がぎゅっと縮こまったりつながりが途絶えてしまうみたいなことがあったりして、どうやらそのセンターに入りづらいということがヤさんも感じていたみたいで、ではどうやってセンターにみたいなことを研究していたのですが、なんかどうやら僕でいうと二の腕から脇のあたりが接点としてなくなってしまう、途絶えてしまうから繋がりがなくて空白みたいな感じになるらしく、そのあたりの皮膚とかお肉とか空間を使えるようになったら随分と楽になったというか、乗っかることが怖いって感覚がかなり減って、多分、その空白があり、相手との繋がりが途絶えてしまうから、落っこちてしまいそうな感覚が強いのだろうなと思いなんだかとっても、おおおおおおとなる瞬間だった。途絶えなければ突然落っこちてしまうこともないから、体の接点の空白をなくしていくともっと楽チンなんだと思えた。最近、骨盤周りを柔らかくしたいなんてところからもぞもぞ動かしてみたり、背骨を触れたり、触れてもらったりしながら、なんかそんな体の感覚をいつもよりちょっと丁寧に見てるみたいな時間でした。最近、やっと体で起きていることに目を向けられるようになって来た気がしてい、今までってイメージや感覚そのものそれは感情みたいなものかもしれないが、によく焦点が当たる感じがしていたのだが、体の連動というか動きというか、そういうものに焦点を当てることの楽しさや心地よさ、あと純粋に体が動くことの気持ち良さみたいなものもなんか知れて踊るの楽しいなとなっているのでした。

 それで結局、今日こそは下着類をゲットするという心持ちで家を出るもぱらついた雨と寒さで、すぐに引き返してくる。miiさんもきび砂糖を買いに行くと言って意を決してともに家を出たのだが、互いにすぐに諦めて、今日はもう家でぬくぬくとしてやろうじゃねーかみたいなそんな状況になっているわけである。急に冷えて来たのと、最近完全にじゃないのだが便秘気味な感じがするので、腸を意識したいなと思ったりする。少し右の脇腹あたりを揉んでいたら気持ち良かった。触れることについてもうちょっと探求して見たいのかもしれない。昨日クラニオの話とかをしていたのもあるのかもしれない。触れ方で体の内側の流れが変わってくるだろうし、そうやって整えていくことができるのってすごく大切なように思っていて、なんか色々と試してみたいしやりたいことたくさんあるんだなと思い、そんなわけで今日はしゃぶしゃぶの鍋にしようと思うのでした。これから大根下茹でする。

言葉が心地よいこと。

2022/11/30

 そういえば色々話したいことがあったんだと思い出したのですが、このまえ川喜田映画記念館で濱口竜介監督の偶然と想像をやってて観て来た。短編3つが重なってる映画で恋愛的な側面から現れる関係のこじれというかそういうのがこう内面をえぐられるような感覚があって、すごく良かった。ドライブマイカーを観ている人が多くて、ああ面白いんだろうなーと思っていたのだが面白かった。なんというか詩を感じるような声が好きだなと思うし、どこか干渉しすぎない在り方というか、ただ存在として映し出される人が興味深かった。言葉の強固さというか、それでいて脆い感じで、なんかそのどちらもがありながら、自分で言いながら自分で気づいていたり、影響を受けていたり、それが前面に押し出されないというか、ただ静かに言葉を味わったりする時間というか、その声質の心地よさみたいなものがあるのかもしれない。それでいて日常から見るととても異質なのかもしれないし、ただこちらの世界ももちろん存在してますよねというか、共通言語みたいなものがそこにはあってそういうものに触れると喜びを感じるというか、例えばチェルフィッチュだったり、坂口恭平さんの小説だったり、そういう言語に触れた時になにか救われたような感覚になるというか、これでいいんだと許容された感覚があって、偶然と想像もその感覚が確かにあったと思う。なんかそんな流れなのかなんなのかわからないが、石牟礼道子さんがまた気になり始めている。なにかそこにも欲しい響きみたいなものがあって、そのために文字を追っていたりするのかもしれない。本をあまり読めないと思っているのだが、今は電車の移動の時に寺尾紗穂さんの彗星の孤独を読んでいて、それはするする読める感じで、なんかこう流れていることだったりして、だからそう、言葉がないことに対しての劣等感みたいなものがあったりするのかもしれなくて、それはある種の社会性みたいなものだったりして、社会復帰みたいな言葉じゃなく、ただ整然と流れているこのぎこちない言語に耳を傾けたいというか、その核に触れるために絵やダンスはあるのだと思うし、声もそれらを響かせる役割をも持っていて、身体から生まれるそういう響きについて関心がいつだってあるのだと思う。

 うららがホロスコープを見てくれて、なんか想像以上にがっつり見てくれて嬉しかった。なんか時折そういう側面で丁寧に見てくれる人が現れる。受け取り上手らしい。そういう自覚はあるし、なにか大事な時にそういうことを手渡される感じがあって、そうやって受け取っているものを、ではどうやって今この場に現していこうかと考えたりする。深く掘り下げるという側面と霊的な側面があって、これからその霊的な側面をどうやって関わっていくかなんだと思って、なんだかそういうところがはっきりとノートの上に現れたというか、霊性や情操をどう育んでいくのかみたいな、そういうことがテーマなのかもしれないし、いつもどこかそのことを無意識ながらに学ぼうとしている気がする。かといってそういうことについて真面目になると余計に窮屈になったりするので、なんか気軽に育んで行けたらいいなと思うし、なんかそういうところを感じる人達ってやっぱり身軽というか、遊んでいる、それはたくさんのことを五感で感じ取ってそれらを受け取り踊っているみたいな感じなのかもしれないが、いたって真面目ではないというか、とてもおおらかで自由なのだともう。だからといって適当なわけではなく、やっぱりその場を生み出すことにおいて徹底しているというか、外さないような気がしていて、それは手が込んでるとか込んでないとかではなく、どこかしらにそういうその人の余韻だったり、形跡みたいなものがその場にはいつだってあるんだなとなんだかふと思ったりした。それでなんだか魚座というのがテーマらしく、ああそういえば魚座の人は僕のことをなんだか応援してくれてるなぁと勝手ながら思ったりしているところがあって、だからその終わりの部分というか、そういう間の部分というか、なんかその上空な感じといいますか、それが確かにこれから磨きをかけていきたい部分だったりするよなとなんだか思ったりしている。

 それで掃除をしていて、なんだか本が増えたなーと思って、それってなんでなのだろうと思ったのだが、本は自分に取っての言語を味わう装置みたいなものだったりして、そこから受け取るものは、やっぱりなにか作る上での影響がある気がしてて、主に音楽がそうだと思ってたのだが、音楽や言語みたいなものが自分の中にあるものを刺激してくれて、誘発してくれて、だからなにか体が動き出すような感覚があるというか、そんな感じなので、こんなに本ばっかり買ってどうするんだとか言わないで、装置として気になったら手元に置いておくってことをこれかもしようと思う。もしかしたら自分が読むって感じじゃないのかもしれないし、なんかただ本当に装置なのだ。

今日は踊りに行く。

2022/11/29

 曇りがちだったのだけど風が強かったので薄手のものなら洗濯したら乾くかもと思い洗濯した。予想通りわりかし乾いた。風による自然乾燥機。にしても風が強いので、すりガラスの家はガタガタと揺れる。窓に打ち付けるくらい雨が降って来たので雨戸を閉める。風が強い日ってわりかし眠れないことが多い。窓の音なのか、風によるなんかその空気の変化なのかそういうのであまり眠れないまま朝を迎えるのだが、今日は果たしてどうだろう。

 うまく言葉が出てこないということは常日頃あったりして、そういう時に限ってなにか言いたげだったりする。何か言葉にならないそういう感覚をいつまでも放置しておくと、腐敗していく。だけど発酵させる程度にそこに慣らしておくということも必要だったりして、その塩梅みたいなものはあるのだと思う。言葉がないということはその日常的な会話に対する言葉がなかったり、社会的に必要な言葉がなかったりすることで、もともとそんなものはないのだが、そういうものにどうしても合わせようとか、追いつかなくてはみたいな、そういうことを考えてしまったりすることがあるのだと思う。ある意味でいらないのだろうし、関わるかどうかも自分で決めたらいいのだと思う。言語のことだと思う。態度のことだと思う。そういうことを雄弁に語りたいと思いなが、語り始めると遠ざかっていくような感覚になる。それが乖離しているのか、どちらが本当なのかとか、そういうことを判断する暇もないくらいに創作は続くのだと思う。絵やダンスは声がないところに声を生むだろうし、言語を作り出すのだと思うし、それでようやく掃除を始めた。なんとかせねばと思いつづけて、どれほどの時間が流れていったのだろう、となんか聞いたことあるようなないような歌詞みたいなことを呟き出したりするのだけど、ひとまず絵を描いているスペースの下敷きにしていたダンボールや新聞紙やらを引っぺがして、埃を取り除く。掃除機。ゴーーーーーと割と豪快な音がする掃除機を用いて、動かすたびに現れる埃を吸い取る。ひとまず引っぺがしたことに満足しつつ、絵を整理する。ひとまず部屋の中に出ている紙に描いた絵をサイズごとに分けたりする。ダンボールに描いた絵も色々サイズがあってそれをサイズに分ける。絵を描いている紙がなくなってて、買わなくてはと思っていたのだが、いくつか描いてなかった紙や裁断すれば使える紙がわりかし大量に出て来て、なんだか時折ないないと大騒ぎするが、実際の所よくよく自分の持ち物を把握すると大体使えそうなものが出て来たりする。ない時はちゃんとやってくるし、欲しいものが見つかったりする。多分自分のことを全然把握できていないのだと思う。自分というのは内面のことだけではなく、持ち物だってそうなのかもしれない。今何を持っているのか、どこに何があってどのくらいの量を持っているのか、どれくらいの量が自分に取って最適で、心地よいのか。内面の心地よさともイコールなのかもしれないが、なんだかそういうことが置き去りになっていたように思えて、掃除というか身の回りの整理みたいなものはやっぱり必要だなと思う。棚卸し的な感じなのだろうか。兎にも角にもこの家に住み始めてからかなりの量の絵を描いている気がする。だけどなんかまだまだやれるんだろうなと思うし、今はハガキくらいのサイズの紙が出て来たので、それにドローイングしている。なんとなくそんな風に何気なく描いた時って力が抜けてて良かったりする。

 それでひとまず掃除はまだ途中である。ちょっとずつやってみることにしている。今日はキャンパスの絵を袋にしまった。しかしどうにもこうにも埃というものは現れるようでつどつどメンテナンスしてあげるってことがとても大事なんだなと思うが、わりかしそのまま放置してしまうことってあったりして、だけど少しそういうところも丁寧になりたいというか、やっぱりスッキリしている方が心地よいのだと思う。なんというかダンボール引っぺがして埃とったらかなり空気が軽くなった感じする。本当にまだ一部だけなのだけど、それでも随分違う。それにしてもなんというか絵が大量すぎてはて、どうしたらええんやろ〜ともなっている。とにかく毎日描いているので、どんどんどんどん積み重なっていくのだが、本当に世に出ないまま置かれている絵が沢山あるのだが、そういうこともまたすこしいたたまれない気持ちになったりして、どうにかこうにか外に出してあげるというのはなんだかこう、子供を送り出す親のような気持ちなのかもしれず、そう意味で現状の僕は子供を家の中に監禁しているような、なんというか秘密の花園のあの男の子みたいな状況かもしれず、もっと広い世界をみることが絵たちにもそういう権利というか、旅立つことがあってよくて、とにかく今は掃除がしたいのと身体動かしたいのでありまして、なんか眠くなって来たのでアイス食べて寝ようかと思う。

アイス食べようかと思うたらなかった。仕事帰りのmiiさんにアイス食べようかと思うたらなかった(ひとりごと)アイスを食べてねたい(のぞみ)と連絡する。あったはずなのになーと思うたら、昨晩風が強くて眠れなかったらしく夜中に食べっちゃったらしい。待ってろと言われたので、おとなしく待っていることにします。

2022/11/20

 雨がしとしとしておりますが、ザーザーって感じでもなくてパラパラ降っていたと思ったら、雨脚は強まって来た感じでした。雨が降りうそうな感じだったので、朝のうちに買い出しに行く。お昼はラーメン。夜はうどん。麺類づくし。駅前に行ってフィルムひとつって、また朝マックした。コンビセット的なのにはまっているのだが、昨日コーヒーはMサイズにできるのか聞きそびれてしまい、Sサイズのままコーヒーをもらったのだが、今日は意を決して聞いてみた。こういうことが意を決することなのだ。聞いてみるってことがわりかし苦手で、まあそこにあるものでいいかってなりがちなのだが、だがコーヒーはMサイズが本当は良くて、なのでまあなんだろう、無理な願いではないと言うか、常識の範囲内の願いであるのだから普通に聞いてみたらよいのだが、それがわりかしすんなりまではいかない。少し腹に力を入れて、いざ聞いてみるのだ。コンビセットのエッグマフィンひとつとホットコーヒーで。このままでは通常どうりの注文になってしまう。あのちなみになんですけど、コーヒーってMサイズにできますか?となんとか振り絞る。いや、こういうことはだいぶ慣れて来てはいるはず、ちょっと振り絞った。よくやった自分。大丈夫ですよ50円プラスになりますがよろしいですか?的な感じでとても感じの良い店員さんだった。僕は一体いつも何に怯えているのだろうかと思うが、なんかこういう買い物ひとつとっても怯えていたりして、いや、だいぶ減ったのだと思うが、例えば絶不調真っ只中の時というのは、こういうやりとりが難しくて買い物行くのも困難だったりするのだが、つまりかなりの勢いで否定的になったりしていて、しまいには相手を攻撃したりもするんだけど、やれ態度が悪いとか、やれ傷つけられただとかいうんだけど、僕も十分態度の悪い時がある人間なので、あれだが、なのでまあそういうところをひとつひとつ細かく、すがすがしく、爽快にみたいなかんじでやっているのだこれが。

 図書館でダンス・イン・ザ・ファームを借りた。中村明珍さんの本。元銀杏BOYZの方らしい。その音楽活動的なことはあまり知らないのだが、ただなんかその言葉の感覚などがやらわらかくて好きだなと思いながら読んでいる。ダンスとファームがくっついていたから借りてみた本なのだが結構おもろい。

 なんかこう体に意識を向けるというのが僕はもともと苦手で、すぐに携帯電話に手を伸ばしてしまう10代、20代だったので、いまは携帯電話持ってないのだが、そんな感じなのでここ数ヶ月はなんかやっとすこしずつ体に向かえるようになって来たなと思う次第である。好き嫌いの感覚はわりかししっかりある気がするのだが、もうちょっとこう体自体に根付いてるものをほぐしていきたいなと思っていて、それでやっぱり腰回りというか、骨盤周りが動かそうとするとゴギゴギーって感じだったり、ガギガギーって感じだったりして、かなり固いのだと思うが、なんかこう他の部分はわりかし緩んで来たのだが、今日はようやくそこに着手してみたというか恐る恐る、それでいて無理しないようにちょっと動かしたり伸ばしたりしている。縮ませたり、広がったり、何がともあれ、その硬いと感じる部分を動かすというのは最初かなりその痛みというか、そういうのが走るから嫌なんだけど、だけどちょっといくと楽になるというか、緩んだ感じがするというか、そんな感じでやっぱり動かすということがなんか大事な気がしていて、だけどここはやっぱり自分の体と相談だと思うし、無理のない状態で動くっていうのがなんだか大切よなーと思うのだけど、そういう意味で自分で自分に相談しながらやってみんしゃいってことな気がする。無理を通り越すと無理が負荷になりすぎるのだとおもうです。やってみたあと心地よいかってことかしらね。確認。

 改めて自分を見つめるというか、そういうとちょっと重い感じになるのだが、改めて一緒に居る感じなのだと思う。この何ヶ月か先の未来に向けてやることがいくつかあって、それは演劇とかダンスとかの未来の予定に向けての稽古みたいなことが予定として入っていて、いまはそういうものがすっぽりなくなった状態で、なので改めて自分と過ごす時間なのだが、もともとこういうことが苦手で、苦手だったのは寂しいとか、友達いないみたいで嫌だとかそんなことを子供の頃思っていて、一人でいるとなんかすごく物悲しかったりして、つまりそれも否定的な声が聞こえちゃってるわけで、実際そんなことないし、家族もいたし、一人でも楽しめるようになりたいと思っていたのだが、じゃあたのしめるようになったのかというと、結局こうやって公の場で書いてるのも、誰かに見てもらうためだし、一人でいる中で発見したことを共有したかったり、こんなことを考えたり思ったりしたみたいなことを伝えたかったのかもしれないし、相変わらず一人でいるのは苦手なのかもしれないが、充実させる方法みたいなのはわかって来てて、それは本当になんでもないことの連続だったりするのだが、そうやって自分と上手に一緒にいれることが何よりも大切だなとやっぱり思うのである。

肉うどんつくる。

2022/11/19

 お昼ご飯は昨日炊いてくれてたお米が余ってたのでカレーにした。ファミマで買った欧風カレー。昨日もカレーだった。最近少しご飯作るのが億劫だったりして簡単なものにしている。そこにサラダを添えるみたいな感じ。ミニトマトと焼いたズッキーニものせた。食べ終わってチャイを飲みたくなったので作る。スパイスの香りがいい感じ。手に乗せてふわっと香ってくる感じが好きなのだ。そんなわけで部屋の中も少しスパイスの香りが広がっているんだと思う。朝起きて、7時くらいにmiiさんが家を出るタイミングで鍵を閉める音で起きた。なんかその瞬間に、あぺもーーみたいな声が聞こえて起きた。時折そういうことがある。幻聴なのかと思うが、なんか自分が言ってるのかもしれないし、どこかの誰かの寝言なのかもしれない。兎にも角にも、疲れたーもうちょっと寝ようかと思ったけど、いうて7時間寝てるし、寝すぎてもあまりすっきりしないので、もぞもぞとさせながら体を起こす。少し散歩しようと思ったのと、葡萄パン食べたいと思って、ぐるっと回って駅前に行く。ルートをどうしようかと散歩しながら考えて、海に向かおうとして、引き返して、山に行こうとして途中で引き返してみたいな、なんかうんちもまだしっかり出してなかったので、体が戻ろうとしてる感じだったので、1時間くらい歩いて帰宅したのだが、駅前に着いた時無性に朝マックがしたくなって、ベーコンエッグマフィンとコーヒーを買った。やっぱり葡萄パンも買った。その帰り道ファミマでお昼ご飯にと欧風カレーも買った。最初はハヤシライスを食べようかと思ってたのだけど、サッと手に取ったのが勘違いして欧風カレーだった。レジ待ちの時に気がついて、一度売り場に戻って悩んでたのだが、あまり得意じゃない店員がいることに気づき、違うファミマに移動する。好き嫌いが激しい。それでも生きていくんだぜ。そんなわけで別のファミマで無事欧風カレーをゲットして帰宅。エッグマフィンなんかを食べながら書き物をする。いつも適当にタイトルをつけるのだが、おぼっちゃま論にした。何かを論じてるわけではないと思う。兎にも角にもおぼっちゃまがおぼっちゃまじゃなくなり、おぼっちゃまであることを思いだして戻って行くみたいなことを書いている。つまり僕の記憶であるのだが、おとといmiiさんと昔の間取りについて話したのが面白かったんだと思う。過去の記憶をもう少しイメージしたり、風景を感じたりすることが出来るようになった感じで、だからそれをつかって遊ぼうとしている。内側に向かう遊びなのだ。4,900字書いてた。原稿用紙13枚分。こういう時ってだいたい10枚分くらい書くと内側が落ち着くのでそのあたりを目指して書いてる。こういう日記見たいのは最近2,000字に設定している。なんか心地よい数字とか、入っていきやすい数値みたいなものがあるんだと思う。その後だらだらとYouTubeを観る。なんか渡辺直美の動画がめちゃ面白い。切り抜きの動画なのだが、とにかく聞ける。なんか騒がしい人と思っていたのだが、全然そうじゃなくて爽快な人で、聞いててすっきりするというか気持ちが軽くなる感じがしてとても良い。

 いろんなことを考えたり、感じたりしているが、それでも軽い爽快な感じになっていたいと思った。どちらかというと重たい感じのことが多い。やっぱり考えてると重たくなるんだと思う。爽快なエネルギーって風みたいで良いなと思った。なので重たさをうまく調整できるといいなーと思って、そんな事言って動画に釘づけてだんだん疲れて重たくなってきたので、絵を描こうと思っていたが再び散歩。今日はフィルムカメラを持って散歩している。また海に行くか山に行くか悩んだが、山に行くことにした。トンネルを通って、二つ目のトンネルを抜けると少し雰囲気が変わって、自然がより多くなってくる。少し行くとタチンダイに入れる山道がある。隠れ家と呼んでいるが出入り自由なので人はもちろん入ってくるのだが、今日は誰もいなかったのでラッキーと思いそのまましばらく居座ってた。声を出したり、体を動かしたりした。声は場所と響きあって、その響きを聞いているのが心地よかった。その後の静寂とか、そういう隙間のようなところにハマってる感覚になると戻ってきたなと思う。そんなこんなで人が来て、なんだかそわそわし始める。人見知りが発動している。遠くから徐々に歩いてくる若者に、僕は人見知りしている。そんなわけなので立ち上がって、足元の落ち葉を踏みしめながら、ザックザックみたいな感じで歩いてたら、こんにちはって声をかけられ、これはまずいことになったと思いながら、こんにちはって返した。鎌倉の方ですか?って言われて、はいそうです〜なんて言いながら、この先はどこかに繋がってるんですか?なんて言われて、この先はもう行けないんですけど、くる途中のところ山道繋がって歩けるんでいろんなとこいけますよ(うへうへ)みたいな感じでことなきを経て、ほんだらまたご夫婦が歩いてきて、こんにちは〜みたいな感じで、こんにちはーと言いながら山道を下って行くのでした。

 陶芸した時に作ったデカすぎるマグカップがあって使い道がわからなくなってたのだが、お花を添えたいなと思って帰り道お花を摘んだ。