いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/11/30

 そういえば色々話したいことがあったんだと思い出したのですが、このまえ川喜田映画記念館で濱口竜介監督の偶然と想像をやってて観て来た。短編3つが重なってる映画で恋愛的な側面から現れる関係のこじれというかそういうのがこう内面をえぐられるような感覚があって、すごく良かった。ドライブマイカーを観ている人が多くて、ああ面白いんだろうなーと思っていたのだが面白かった。なんというか詩を感じるような声が好きだなと思うし、どこか干渉しすぎない在り方というか、ただ存在として映し出される人が興味深かった。言葉の強固さというか、それでいて脆い感じで、なんかそのどちらもがありながら、自分で言いながら自分で気づいていたり、影響を受けていたり、それが前面に押し出されないというか、ただ静かに言葉を味わったりする時間というか、その声質の心地よさみたいなものがあるのかもしれない。それでいて日常から見るととても異質なのかもしれないし、ただこちらの世界ももちろん存在してますよねというか、共通言語みたいなものがそこにはあってそういうものに触れると喜びを感じるというか、例えばチェルフィッチュだったり、坂口恭平さんの小説だったり、そういう言語に触れた時になにか救われたような感覚になるというか、これでいいんだと許容された感覚があって、偶然と想像もその感覚が確かにあったと思う。なんかそんな流れなのかなんなのかわからないが、石牟礼道子さんがまた気になり始めている。なにかそこにも欲しい響きみたいなものがあって、そのために文字を追っていたりするのかもしれない。本をあまり読めないと思っているのだが、今は電車の移動の時に寺尾紗穂さんの彗星の孤独を読んでいて、それはするする読める感じで、なんかこう流れていることだったりして、だからそう、言葉がないことに対しての劣等感みたいなものがあったりするのかもしれなくて、それはある種の社会性みたいなものだったりして、社会復帰みたいな言葉じゃなく、ただ整然と流れているこのぎこちない言語に耳を傾けたいというか、その核に触れるために絵やダンスはあるのだと思うし、声もそれらを響かせる役割をも持っていて、身体から生まれるそういう響きについて関心がいつだってあるのだと思う。

 うららがホロスコープを見てくれて、なんか想像以上にがっつり見てくれて嬉しかった。なんか時折そういう側面で丁寧に見てくれる人が現れる。受け取り上手らしい。そういう自覚はあるし、なにか大事な時にそういうことを手渡される感じがあって、そうやって受け取っているものを、ではどうやって今この場に現していこうかと考えたりする。深く掘り下げるという側面と霊的な側面があって、これからその霊的な側面をどうやって関わっていくかなんだと思って、なんだかそういうところがはっきりとノートの上に現れたというか、霊性や情操をどう育んでいくのかみたいな、そういうことがテーマなのかもしれないし、いつもどこかそのことを無意識ながらに学ぼうとしている気がする。かといってそういうことについて真面目になると余計に窮屈になったりするので、なんか気軽に育んで行けたらいいなと思うし、なんかそういうところを感じる人達ってやっぱり身軽というか、遊んでいる、それはたくさんのことを五感で感じ取ってそれらを受け取り踊っているみたいな感じなのかもしれないが、いたって真面目ではないというか、とてもおおらかで自由なのだともう。だからといって適当なわけではなく、やっぱりその場を生み出すことにおいて徹底しているというか、外さないような気がしていて、それは手が込んでるとか込んでないとかではなく、どこかしらにそういうその人の余韻だったり、形跡みたいなものがその場にはいつだってあるんだなとなんだかふと思ったりした。それでなんだか魚座というのがテーマらしく、ああそういえば魚座の人は僕のことをなんだか応援してくれてるなぁと勝手ながら思ったりしているところがあって、だからその終わりの部分というか、そういう間の部分というか、なんかその上空な感じといいますか、それが確かにこれから磨きをかけていきたい部分だったりするよなとなんだか思ったりしている。

 それで掃除をしていて、なんだか本が増えたなーと思って、それってなんでなのだろうと思ったのだが、本は自分に取っての言語を味わう装置みたいなものだったりして、そこから受け取るものは、やっぱりなにか作る上での影響がある気がしてて、主に音楽がそうだと思ってたのだが、音楽や言語みたいなものが自分の中にあるものを刺激してくれて、誘発してくれて、だからなにか体が動き出すような感覚があるというか、そんな感じなので、こんなに本ばっかり買ってどうするんだとか言わないで、装置として気になったら手元に置いておくってことをこれかもしようと思う。もしかしたら自分が読むって感じじゃないのかもしれないし、なんかただ本当に装置なのだ。

今日は踊りに行く。