いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/11/17

 昨日からお昼は太陽堂の新作雲呑麺たべようーと楽しみにしていたのだが、行ってみたら臨時休業だった。早朝マスター見かけたので、なにかあったのかな?とか話しながら、やっぱりラーメンな気分だったので静雨庵へ。ラーメン大盛りにした。miiさんは唐揚げ弁当セットにして、唐揚げ一つとご飯を少々分けてもらった。食べ終わって少し疲れたのでファミマでコーヒー買ってベンチに座って休んだ。なんか、戦争の話とかそういう話を少ししていた。昨日、ニュースに出てきて体が、胸のあたりがすごくざわついたのを思い出した。それでカフェにいた時もそういうことを思い浮かべて、例えば赤紙みたいなのがきて、それをきっと無視するだろうから、そうなった時に僕はどうなるんだろうと思った。そのままのたれ死ぬのか、撃たれてしまうのかとか、そういうことを考えて、今はなんか、レタスは土に入れると毎日しっかり生えて来るって書いてあったの思い出して、そうやって生きていけば良いのかとなんだかふと思った。最近は野菜を食べたい感じでよく食べてる。それで菜食主義みたいなことをするとバランス崩すので、いつもの食事にサラダをつけるようにしてる。野菜というかフレッシュなものが食べたいみたいな感じかな。だけど刺身とか、なま肉とかじゃなくて、果物とか生野菜とかそういう感じのものがいいなと思って食べている。

 そういえばこの前のダンスの時に、すごく何かを、この世のものではないものを見ているように見えた、みたいなことを言ってもらってなんだか嬉しかった。あ、そう見えてるんだ〜なるほど〜ってなった。なんというか憧れというか、想像力がある人が羨ましいなって思ったこともあったのだが、いや今も思っていたりするのだが、そういう風景みたいなものが正直何も見えていないんだと思う。内側の風景みたいなものを見れたら良いなと思っているのだが、如何せんあんまり見えていないし、だけどなんか見えてる気もする。

 暗がりの坂道を歩いていて、電灯がひとつある。黄色い花が咲いている。いくつも。電灯は柔らかい光で、緑色だった。黒い電灯、カラスがさっさと跳ねる。電線を歩く。空は明るい。雲がいくつもうねりながら並んでいる。そこに電線が一つ。自動販売機がひとつ。駐車場には満席の文字があって、歩く先には水たまりがあった。反射する建築物や木々、紅葉しつつある上空のひかりに目を細める。石のベンチ腰掛けて、子供の頃の間取りを伝え合って、今はない家のことを思い出している。無印のノートに青いペン。大きな家の中で寝る場所を探す男の子がいて、枕を持っている。大きなタンスに衣類や下着が入っていて、どこに何が入っているのか探すのが難しいし、少しタンス特有の木の匂いみたいなものが衣服についてしまうのが苦手だった。階段を登っていくとそこは最上階で、布地のソファー、青い色彩で地図のようなものが描かれたソファーに横たわって、朱色の冷蔵庫を見てる。そのときは床に寝転がっていて、初めての出来事に驚いたりした。

 そう、それであまりそういう風景みたいなもの、イメージのようなものを持ち続けることはできているのか、できていないのかわからないが、視覚的でないまでも、身体的な感覚として何かは捉えてるのかもしれないなと思ったりして、だからなんというか、絵を描いているが身体感覚的なものが浮かび上がっているようにも思えて、だから視覚的なものを作っているわけではなく、ただ手が動いているし、その筆を持つこととか、手についた絵の具とか、爪にこびりついたオイルパステルとか、鉛筆の硬さとか、その書き心地とか、そういう身体的な心地を確かめるために描いてるのかもしれない。なんかそれでも良いのかとも思うし、それでいいのかとも思ったりもするのだけど、だけどなんかこうやって続けられてるのはもしかしたら絵にダンス的な要素を感じられていたから、だとしたら、それもそれで嬉しいような気がした。だから絵を描いてるなんて言えなのかもしれないし、だけど紙やキャンパスに何か描いてるんだから絵なんだとも思って、だからそう、展覧会した時に、絵がダンスみたい的なことを、ダンサーの方が言ってくれたのを思い出して、だからなんというかダンスをなんやかんやで続けてるのはそういうことなのかなと思ったりする。かといって誰かに習ったりしてるわけでもなく、ただそういう踊りがある場に出かけるのは好きで、JAMとかそういうのもやっぱり行きたくなるわけだし、かといって身体感覚を扱うワークみたいなものも楽しいと思うわけだし、だからなんだろうか。ダンスがやっぱりどこにいってもあるなーと思うし、なんというか即興芝居やってみてやれなかったときにコンタクトインプロは今の自分でもできるって思えたあの感覚ってなんかすごく大切なのかもなと思ったりして、だからその頭らへんで言葉を交わすやりとりでなく、全身で、体で行われる交感的なことが、交歓であったりするみたいなことのように思って、じゃあダンサーのような体を持っているのかというとそういうわけでもなくて、なんというかダンスを通して行われる存在を感じること、光を感じること、なんかそれはとても幸福な瞬間だったりして、そして音楽はやっぱりいつもそこにあるなって思うのでした。

声はひかり、ダンスはいのり。みたいな。