いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/12/08

 最近のことを少し話してみようと思うのですが、家の掃除をしている。少しずつしている。だからあまり進まないで、結局物が置きっぱなしになっていたりして途方にくれたりする。だから少しというか、無意識ではかなり焦っていたのかもしれない。次に進まなきゃとか、変化させないととか、そんなふうに次へ次へと向かう思考をなんとかいまやっと、すこし落ち着きを取り戻したというか、すこしこうやって創作に、書くことに向かうことができるようになっているので、そのことについて少し話してみようと思っている。本をしまったり、服の整理をしたりしながら、どこかずっと気になっていたのは描きためた絵のことだった。押入れにこの何年か描いていたものがどっしりとしまってある。なんというか掃除をするということはその絵を見なくてはいけなくて、見なくてはいけないというとなんとも微妙なニュアンスなのだが、心のどこかで、こんなに絵を描いたのに現実は何も変わらなかった、という虚無感というか、見たくないその切実な罪悪感みたいなものが溢れてきているのかもしれない。家はそんなに広くはない。東京に住むよりは少し広いかもしれない。そんな中で、描きためたものが山積みになって、それが誰か人目に触れるでもなく、いや実際はInstagramとかにあげたりすることもあるし、誰かに見てもらうこともあるのだろうし、展覧会だって年に1度はしたり、今年は演劇の中で絵を使ったりして、そうやって見てもらったりする機会はあったのだろうし、だけど、結局どんどん溜まっていくこの排泄物を一体どうしたらよいのかわからないままここまできてしまって、だから立ち止まらなくちゃいけないと思って掃除を始めたのかも知れないし、それで絵を描いていたスペースには荷物がかさばって、絵の具を使って絵を描くことができなくなっているのだが、それでも机の上で描けるくらいのサイズで、ちょうどポストカードくらいのサイズの紙があったので、余っていた端材をそのサイズに切って鉛筆だけでのドローイングをして、結局どこか場所を見つけて、そのサイズ感にあった絵を毎日描き続けることになって、またそうやって絵は溜まっていくのだが、じゃあこれどうしたらいいんだろうといつも頭を抱えてしまう。

 お昼ご飯はパンにしようと思い、買いに出かける。少し物件も見たいなと思い、不動産屋さんの前を通りながら歩く。多分何か探してるわけでもないのかもしれない。結局本屋さんに入って、雑誌を立ち読みする。ポパイのコラムで坂口さんが書いてる文章を読んですごくホッとする。管になっていることみたいな記事で、そうだそれでいいんだよなとなんだか肩の荷が下りた感覚があって、力が抜けた。何かしようしようとここ最近ずっとしていたのかもしれない。このままじゃいけないと現実を変えたいとなんだか必死だったのかもしれない。それでいて、溜まっていく絵を見るのが怖くなっていたのかも知れない。結果が出てないと思っているのかも知れない。それは売れることだろうか?お金を稼ぐことなのだろうか?お金が稼げていないことも後ろめたいのかもしれない。毎日毎日描いて結局一銭にもならない。いや、実際には絵を買ってもらったことはあって、一銭以上にはなっているのだが、過去のことは忘れてしまっている。なんだか八方塞がりのような気分になっている。それで結局どうしたいのかと思った時に、管になりたいと思うのだが、ただ通り抜けていく場所として体を使いたいのだと思う。ダンスでもそうだろうし、芝居するときだって結局そうなのかも知れない。絵を描くこともそうだ。ただ動き出すことで現れるものを、それらを創出し続けることでよいのだろうなと思った。もしかしたらこれから先何も変わらずに、このまま死んでいくのかもしれない不安に襲われるのだが、もしかしたらそれでもいいのかもしれない。死ぬまで作り続けて、誰の目にも触れずに消えていく。それでもいいのかもしれないといいながら、多分それじゃ満足できないだろうと思う今があって、きっともっと人とコミュニケーションを取りたいとのだろうと思う。それは多分会話的なものではないのかもしれない、誰かの作品を見ている時に感じる、思い巡らす、あの時間のことを言っていて、そういう時間を、もしかしたら直接的ではない、それでいて、内に働きかけるようなそういうコミュニケーションをいつも作りたいと思っている。何かその立派であると頭に浮かべているその立派さは一体誰が作った立派で、自立なのだろうか。果たしてそれは自立しているのだろうか。社会から生まれた妄想に、幻想によっかかってはいないだろうか。幸せな家族像やこうあるべきとされる男性像だとかそういうあやふやでいつ消えてしまうかもわからない偽装にいつまですがりたいと思うのだろうか。そんなことに頭をいっぱいにさせているくらいだったら、苦しくても毎日描くことだったり、体を動かすことだったりし続けたらいいし、どうしてすぐに作品みたいなものを作ろうとするのか、そうやって形式張ったことばかりが素晴らしくて、管であることは否定されるのだろうか。心地よいのは、体が軽くなるのはどちらだろうか。またすこし目を覚ましてやっていくような気がしました。

今日は双子座の満月ですね。うららがくれた柿。