いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

ながれはながれてどこどこゆくのとかイメージがあんまり見えてないとか。

 目が覚めてなんでかすぐに起きあがる。チャイを作って、パンを焼く。チャイは牛乳の残量が少なめであっさりした感じになる。昨晩、絵を描いててなんだか滞ってたものがまた流れてく感覚があった。描いていたキャンパスがあってそこに写真を貼り付けて描いたりしてたのだが、その写真を剥がしたくなった。油絵の具が固まって、原型のほとんどない写真を剥がす。しばらくどうしようかと置いてたものがあって、結局剥がすことになるような気もしたのだが、だけどしばらくその時が来るまで置いておこうみたいなそんなことがあって、なのでいよいよその時が来て剥がした写真は良い感じに痕跡的なものができててとても良かったから、そのまま紙に貼ってコラージュにしてみる。なんだか少し作りたいものができた感覚に慣れた。なにが作りたいのかはよくわからなくて、いつもちょっとしたやってみたいことから始まって、だからキャンパスに写真を貼りつけてみたくなったのもその時の衝動だったりするが、だけどやってみた先は思ってもいないものだったりする。それが「おおおお〜なんかいいじゃん」って時もあれば「ありゃ、ちょっと違かったなぁ」なんて時もたくさんあって、そうやってやってみて、やってみて、やってみてを繰り返してる気もする。どうしたって小さなやりたいことは出て来る、だからそれをちょっとずつやってみる。その先になんか着地みたいな時が来て、一旦その絵は終わりというか、出来たみたいな感じになる。基本的に紙の絵は1日のサイクルでそうやってる。1日よりも、もっと短いかもしれない。もっと瞬発的なものであるから、数分かもしれないし、数時間かもしれない。とにかくああこれで終わりだなって思ったら終わる。キャンパスはもう少し時間が長くあって、しばらく置いてみてはまた手をつけたり、あっという間に終わることもあって、ただどちらも自分の感覚で置いてみたり、終わったりする。

 ふと、アファンタジアとうい言葉を見かけて、おおなるほどーみたいになってる。あまり視覚的イメージがない。何作るにしても、やるにしてもあまりイメージがないのである。即興芝居のワークなんかでブラックボックスというのがあってイメージで箱を開けて「何が入ってる?」とパートナーに聞かれ、それを答えて遊ぶみたいなやつなんけど、いつも何もないなと思ってて、そういうワークだけじゃなく、何かの物事や人に対してのイメージってあまり湧かない。作ろうとすると余計なにもなくなる。そんな感じだったので、絵を描くことや、なにかを表現する人というのは何かの想像力に秀でてる人がやるものだとばかり思っていた節があり、自分には遠いものとか思っていた気がするが、実際イメージはなくても絵は描けるし、織物もできるし、お芝居やダンスだって出来るんだからイメージは必須項目ではないのかもしれないと思ったりもしつつ、ときおり何かが見える時もあって、それって突然だったりもして、無理なくただそこに身を置いた時に現れたりして、だからイメージを使って会話するとか、発話するみたいなことをするときにイメージがないと言ってるのかもしれない。じゃあ何を用いてるのかと思うと身体感覚であるように思って、ただ受け取った感触とかを手を動かしてみたりして描いたり、ただ最初の衝動を頼りにどうなるかわからないが進んでみるみたいなそんなことをしているように思う。なんだっけ、確かにイメージは湧きづらいとは思うのだが、即興で芝居をしているときに、なんでもないワークの時間に、ヘリコプターが見えたり、実際にそこに乗っている視点に切り替わったり、何かイメージの中に没入できるととても楽しい。その内側にあったイメージは未だに残っていて、だからイメージってなんなのだろうと思うのだ。日常会話的に用いられるイメージや視覚優先の言語だとやっぱりすこし疲れてしまったりする傾向があって、かなりエネルギーを使うというか、身体感覚を伴った言葉だと、抑揚や音楽であるように感じて、話していて心地よかったりして、つまり視覚優先だろうがなんだろうが、身体的な感覚、感情を伴った音楽的な声だったらコミュニケーションって結構楽しいのだと思う。なんの話だか全くわからくなってきてるが、イメージがあまりないなとずっと思っていたが、イメージなくても作ったり表現活動的なことはやれてるなと思ったので、まあそんなに気にしなくても良いことでありつつ、イメージが見えた体験もしてて、それはそれで嬉しいし、楽しいなと思って、少し体が冷えてるので暖めようと思ったのでした。

 布団天日干ししてたら虫が歩いとった。イメージをあまり持ってないと言いながらもこのブログのタイトル「いめーじのなみもり」なのだが、なんというか、自分で創作活動を始めるときに「もっと自分の内側にある風景や感覚をみてみたい」って思ったてことをふと思い出して、何がともあれ自分でいろんなことをどんどんやってみたときに、少しずつ意識や風景が内側に広がってることが知れて、まだまだこの先もあるからこりゃ死ぬまで続けられそうですなとなってて、ないと思ってても、自分が欲しいと望むのであれば自分で育んでいけば良いのだなと思いました。