いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/11/18

 久しぶりにデジカメを持って散歩する。やっぱり感覚が違くて、距離感が近くなるというか、空間だとか風景として写真を撮っていない感じがして、それはそれですごく面白かった。夜だったっていうのもあるのかもしれない。

 なんとなく今、自分の性質みたいなものを改めて捉えている感じがしていて、柔らかいといえばそうなのだが、つまり優柔不断だったりもして、考えがコロコロ変わったりするのはなんでなんだろうと思ったりして、それってつまりどの周波数帯に自分が繋がってるかみたいなところがあるのかもしれなくて、といってもすごくいろんなところを行ったり来たりして、それは波なんだと思うのだが、落ち着きがないなと思ったりする。だからそういう考えをまとめるみたいなことや、決断するみたいなことが元来苦手なのかもしれない。思い返せば、何か仕事をするとか、海外に行くとか、なんかそういうときもいつも何か悩んでしまっていて、じゃあなにもかもを手放せばスッキリするのかといえば、一時的にはスッキリするが、根本的な解決には至らないというか、つまりそうやって自分を直そうとかしていたのかもしれないが、結局いつまでたっても優柔不断っていうのは変わらない気がする。それに、どれもこれも本当なんだと思うし、そうやって話を聞いてしまうし、それでいて聞きすぎて疲れてしまったり、気分が悪くなったりする。だけど、気分が悪いってことはわかったりするから、それはやめていいんだと思う。自分についてはよくわからない。例えば自分の話を聞いている時に、自分がどんな状態なのかうまく捉えることができないが、例えば人の話を聞いている時に、もう聞くのめんどくさいなとか、この人あれこれでこうだからとか、根っこ的な、そういうところを掴んで、その表面の話を聞いてると退屈して嫌になったりする。で、大抵嫌になってる時って素直でない時、本音を隠して相槌を打っている時のように思う。で、大抵のことがめんどくさいのだと思う。やりたくないことはできないし、つまり自分でやりたいって湧き出てこないとやれないので、周りに合わせた時点でもう何もやりたくないだと思う。

 そう、それでじゃあ優柔不断っていう部分を直さないでどうやって生きていくかという方法なのだが、ある程度の条件を事前に決めてあげるのはいい気がした。自分の心地よさで条件を決めていく。つまり嫌なことはできないので、やれません。とか、ここはできるけど、これ以上はできませんとか、そういうこと。その時にやっぱり、そんなわがまま言っていいわけないじゃんって言葉が出て来るんだけど、それでも感覚がやりたくないものをやりつづけると病気になるので、そこをグッとこらえて条件を提示する、その上で嫌われたり、お前とは何かすることは金輪際ないと言われても、それはそれでいいなと思うし、お互いのためにならないから納得になる気がする。何がともあれ、そういう条件を提示することが大事だなと思うのだ。

 なんとなく大事なのは処世術的なもので、自分の性質をどうやって世に知ってもらい、無理なく楽しく、一緒に仕事してくかみたいなことなのかもしれない。それがうまくいっていれば、人間関係に苦労しないだろうし、そういう人だよねって思ってもらえたり、楽なんだと思う。で、だいたいそういう自分のそのダメと思っている部分というか、隠そうとしていることは他人はもうすっかりわかっていて、きっと僕のことを優柔不断っていうことは関わっている人はわかっているだろうし、コミュニケーションに関してやることなすこと時間がかかる、その場で言語化するのが苦手とか、溜め込みやすいとかきっと知っているんだろうし、つまりそういう自分を隠して、理想のできる自分像をいつまでも追い求めるから苦しくなったり、嫌になってしまったりするんだろうなと思うのだが、決断できないのだったら決断できなくても生きていけるようにするとか、と言いながらもう少し決めてみるということをしたらいいのかもしれないが、決めたとて後ろ髪引かれる感覚に引っ張られてしまったりして、もっといい選択があったんじゃないかとか、もっと最良の選択ができたんじゃないかとか、そいうことを言い始めるのだが、それはきっともっと当事者同士で相談したらいいのかもしれない。だけど人はしっかり選ばないといけないし、素直に話せる人、話したい人は選ぶ権利があると思うし、それで伝えてみて、ダメだったらダメで納得だろうし、つまり結局自分の都合よく生きたいというダメ人間っぷりが出て来るのだが、それも結局、家庭環境とかもあるのだろうし、特に何かに苦労することなく、食事や大きな家があったこと、好きなものは好きな時に買ってもらえたこと、そういう甘えん坊っぷりがいつまでたっても治らないというか、自立できない自分をまた責めそうになったりするのだけど、だけどそういうおぼっちゃま的な側面というか、実際に昨日miiさんと昔の家の間取りとか生活を思い出して話してたら幼少期団地住まいだったmiiさんからするとわりかし、愕然とするサイズ感だったらしく、だけどそれは友達とは違うからどうしても隠していて、みんなと同じだよみたいなことがしたかったんだと思うが、だけど僕は当時やっぱりおぼっちゃまだったんだとなんか諦めがついたというか、それでいいじゃないかと思った。

選んできているんだとしたらきっと、そのおぼっちゃま的なことはとても大切なことだと思った。