いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

まなざしとその距離感と。

 朝、商店街を歩いていたら生き物が死んでいた。鳩だった。轢かれてしまったのかもしれない。体に緊張が走った。と、同時に見たことがあった。川内倫子さんのうたたねの中にそんな瞬間を捉えた写真ががあって、その瞬間を今目撃したような気がして、緊張と同時に驚いていた。記憶としてなのかイメージとしてなのか鮮明に焼きついていたものが、現実で、といっても曖昧な感触の中で見た、その一瞬が焼きついて離れなくなった。

 なんだか生と死というと少し仰々しい感じがしてしまうのだが、生きることと死んでいくことみたいなものがいまワードとして上がってきていて、それは一つのテーマみたいなものかもしれないし、あえて表題にしないまでもそっと自分の中にとどめておくようなものかもしれない。最近はもっぱら写真のブームがきていて、フィルムで撮ることで感じることが多々ある。見ているということだったりして、それは視点と距離感とのことかもしれなくて、僕の使っているフィルムカメラはあまりに近い距離だと撮影してくれない。そういう設定なのかもしれない。とにかく撮りたい被写体的なものをある程度の距離をあけないと撮影してくれないのだが、確かにデジカメの時はどこまでも近づいたりして、それってなんか対象を消したいというかもっとイメージみたいなものを、内部にある感覚みたいなものを写そうとしていた。それが今持っているフィルムカメラだとできなくて、改めてその距離感というか、僕の対象との近さについて改めて考えた。人との関係で言えばかなり入り込んでしまう。かなり距離感近いのだと思う。もちろん人は選ぶが、かなり突っ込むところは突っ込むし、聞きたい部分は内部の核になる部分の声だったりするから、かなり近くなる。それは一つ対象との関わりとして求めていたことだし、それができないならコミュニケーションですらないとか思っている節もあって、何がともあれ近かったのだ。だが、なんだか最近、その距離感、完全に溶け合ってしまって、何もかもがなくなってしまった私というよりはもう少し、保たれたまま対象に触れているみたいな感覚をCIをしていた時も感じたりして、ああ、なんか変わってきてるんだなと思った。完全に溶けてしまうこと、自他を超えた状態をなんだか求めていたところがあり、一体化みたいなことをひとつのテーマにしていたのかもしれないが、今は少し変わってきている。もう少しみたいし、撮りたい。見える距離でいたいし、見ていることを伝えたいのかもしれない。

 昨日ふと例大祭があることを教えてもらい、なんでか写真を撮りたくなって出かけてみた。人混みには極力行きたくないし、神様とかもよくわからない。神社の空気は好きだが、基本的に自分が神様と思っている方が健全だなと思うところもあって、なぜ出向くのだろうと不思議だったりして、だからつまりそういうところはあまり出向かないのだが、昨日はなんでか行ってみたくなった。何かを写し出したかったのかもしれないし、もっと見えていることを伝えたかったのかもしれない。それともイメージがあって、それを元に何か期待していたのかもしれない。どれもこれも本当だし、結局、祭りってなんだったのかよくわからなかったけど、神輿に人だかりができて、その人波を見ている時に、ああなんか神輿くらいの距離感で人と関われたらいいなと思った。何か魅力みたいなものを発しながら、人を惹きつけながら、それでいて健全な距離感を保っているように見えた。おそらくこんなご時世だったから車に揺れていたからかもしれない。その祀られているみたいなことがいいなって思ったのかもしれない。

 それで結局何が撮れているのかは現像していないからまだわからなくて、ただ確かに実感としてあるのは、距離感の変化や、身を置く場所の変化をすこしたのしめるようになったということかもしれない。ひとつ外側から眺めていた群衆の中に、あえて入って身を置いてみる。外から見ていた場所に自分が立ってみる。そういうことをして、外側にいた時の少しの否定的な目に気づいたりする。だからそこに立った時何か恥ずかしかったり、こそばゆい感じになる。堂々と撮影をしている人たちを外から批判的にみることは簡単だが、いざその場所に立った時にたじろいでいる自分や恐る恐るカメラを向ける自分に気づいたりする。しまいにはなんか自分の持ってるカメラってもしかしたら恥ずかしいかもしれないとか、持ち物を否定し始めたりして、一旦ポッケにしまって、少し深呼吸して気を取り直してもう一度カメラを片手に歩き出してみる。

 フィルムカメラはなんか新しい自分の側面を見せてもらえる感じがしていて、本当に楽しいのだ。今までデジカメで撮っていた自他を消したイメージではなく、もう少し僕が見ていることを写してみたいのかもしれない。それでいてはっきりになんかと明示するわけではんく、その距離感、詩がそこにはありながらリアリティと揺れているそんな感触を確かめてみたいのかもしれない。

いつかの水餃子。