いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/05/11 no17

 お昼はつけ麺。レモン風味にした。今日は気温が高かったから冷やしにして、食べたらすごく元気出たー。レモンめっちゃ効くなー。食べ物で調子があれこれ変わってく。

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 晩御飯はさんま焼いた。八百屋の人に皮付きのヤングコーンが美味しいことを教えてもらってグリルで焼いて食べてみたら本当に美味しかった。おけ毛も皮も甘くてジューシー。初体験した。

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 なんとなく文字を書くのが億劫になってた。そんなに言葉が溢れてるわけでもないし、書かなくてもいいかと思いつつ、書きたいと思う気持ちもある。何を書くのかはよくわからないけど、散歩みたいな感じで書こうと思うと少し気が楽になる気がする。昨日久々にキャンパスに描いた。50号。描いてて説明しそうになるところから離れられた気がした。絵を描いていても言葉を使いそうになる。そういうことから離れられた感じだった。それが心地よく1日描いた絵を眺めてた。

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 今日は5月11日で、2ヶ月前は3月11日で9年前は震災があった日でそんなことを考えてたら昨日のことのように思えて、間の記憶がすっぽり抜け落ちてしまったように感じられた。あっという間に9年がすぎて、9年前の3月11日と今日の5月11日しかないみたいな気持ちになった。瞬間が細切れで、好きに投影して、入れ替えてやってるだけなのかもしれない。ふとああ、ここからあっという間なのかもしれないと思った。きっと自分の中のいろいろなことが動き出すのだと思えた。何が動き出すのかわからない。だけどもうその瞬間はすでにここにあるように思えた。それは何を示しているのか、何を求めているのか、もしかしたらエゴなのかとかそんなことを考えてみて結局眠たくなって昼寝する。結局何も考えてないように思う。ただ気まぐれに絵を描いたり、書いたり、最近は即興芝居にまたハマってる。また飽きたらやめるのかもしれないし、じゃあ何か探求でもしようとしているのかといえばよくわからずにいて、人生とか生きることにつながるような何かそういうことをしたいのかといえば、ただ楽しかったり、その瞬間子供みたいになって、社会から要請される言葉や体の動きからすっかり離れて、結局踊って絵を描いてた。


Colleen - I'm Kin (Official Music Video)

 Colleenを流して絵を描く。踊りたくなる。無邪気な子供みたいな、そこからも離れてしまうような、ただ動いて、静止して、その時に流れ込んでくる声とか涙とか笑い声とか一身に浴びていようと思って、また動き出す。

 「なんでそんな狭いところでやってるの?動かせばいいのに」と仕事中に言われた。僕はそこにある物を動かすのが面倒だから小さな隙間を見つけてそこに場所を作ってやっていたので「いいんですー。横着なんですー」って笑って言ってた。前だったらパッと出てこなかった言葉のように思えた。単純に本当に面倒だったし、暑かったからあまり物を動かしたりして体力を消耗したくなかったのかもしれないけど、素直に横着だと言えたことがなぜか嬉しく感じられた。

 人をよくよく観察してる。その人の性格とか、言葉遣いとか、そこから何を考えてるかとか、思っているのかとか、そういうことを捜索する。なぜかそういうことをする。それがふと自分を守るためであるようにも思えて、なぜか自分との違いを探しているようにも思えた。それを直接言ったり、相手を変えるための働きかけをしようとしているのかもしれないのだが、だけどそんなことするために観察しているわけではないはずで、できればどんな人なのかを知って、遊びあえたらいいのだろうなとも思ったりする。遊びあうために相手を知ろうとしていると思えたほうが楽しいだろうなと思ったが、次の瞬間には、とは言えそんなに人のこと興味がなくて、結局自分のために人を知ろうとしているようにも思える。身を守るためか、あるいは相手も気づいていないことを知っていることが嬉しいと思っているのかもしれないし、だけど実際に相手が自分が思ったことを実際に認知しているのかなんて確認もできないし、する必要もないし、ただ自分の遊びなだけのように思えた。知ったところでどうしたいのかもよくわからない。相手を変えるためにとか、自分の正しさを主張するためにそれをしているならもう必要のないことのように思えた。そんなに身を守ろうとしなくても大丈夫なのだと思う。だけどいつ攻撃されるかわからないとも思っている。準備していないと危険な目にあうと思っている。突然怒りをぶつけられたり、えぐられるような言葉を投げつけられたりすることに備えている。それが本当に起こるのかは謎であるし、起きたところで何も死ぬわけじゃないだろうに、どうも真剣に備えている。生真面目なところがある。どこか真面目で、一つのことだけに集中しようとするが、それだといつも結局気が滅入ってしまう。だから、適当になんでもやるのがいいように思える。好きなことをやっていない、苦手を克服しようとすると気が滅入る。即興芝居は今楽しいと思えるってことは苦手なんじゃなくて好きなことなのかもしれない。前は人前にで何かすることは苦手だから克服したいと思っていたのかもしれない。それは随分窮屈だった。今は自分から出てくるものを味わったり、出してみたり、感じてみたりして、発掘なのか発見なのかしているのが楽しい。それが芝居って形だとより楽しいと思えるのかもしれない。