いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/05/12 no18

 お昼にチャーハンを作る。ナシゴレン風。美味しかったー。ピーマンの苦味が良い。目玉焼きうまく焼けた。

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 蒸し暑かったのでライムを買って炭酸水に絞っていれてみたら、体がむくむく元気になる感じした。ミントも入れていい感じ。

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 ものづくりするとしたらどんなものがいいのだろうと思ったら、そんなにものづくりにこだわらなくて良いようで、どっちかといえば無形のやり取りみたいな、消えてしまうもので、なくなってしまうものでいいのかもしれない。踊ることとか、料理とかもそうかもしれない。珈琲もそうかも。焙煎することや淹れること。そのうち胃袋に入ってすっかりなくなってしまうもの。なんでそんなこと思ったのかといえば、坂口恭平さんが海で拾った素材でアクセサリーを作っていた。「いいなー、やってみたい」と思って、拾ってあった石ころやシーグラスと針金取り出して、ああだこうだ手を動かしてみたのだけど、細かい作業ってあんまり好きじゃないことを思い出した。夢中に作るわけでもなく、飽きたので少しだけやってすぐやめてしまった。

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 絵はなぜだか飽きる様子もなく続けられている。今日は紙に描く。また大きめのキャンパスに描きたい。ただ細かい作業っていうのが苦手なように、写実的な絵を描こうとするときっと体は窮屈になるのだと思う。現実から離れる行為であるのかもしれない。だからアクセサリーを作ろうとしたらそれは現実になってしまって、それを自分の空間に持ち込んでしまうと喜びに溢れる空間ではなくなってしまう。ようは自由じゃなくなってしまうのかもしれない。空間を作るって意味ではやっぱり最近オンラインでやってる即興芝居が楽しい。もしかしたら自分が本当にやりたいことって芝居とか演劇なのかもしれないと思い始める。本当にやりたいことを見つけるのはそんなに重要ではないのだが、そんなことを考え始めていたりする。空間を作って、そこでどんな振る舞いが出来るかで、それは舞台装置や衣装を作るのとは違って、ただ生身で居続ける、そういうことがしたいように思う。だからその装置とか衣装を作るってことは自分自身でやりたいというより、自分自身のような装置とか衣装を作っている人と出会いたいって感覚なのかもしれない。ずっと自分で作りたいと思っていたけど、今はそこまでの熱量はなく、どちらかといえば無形の、体で、生身で何かし続けたいってやっぱり思っていたりする。削ぎ落として行った結果この体で何が出来るだろう、何を現せるだろう、体で声で身振り手振りで振る舞いでと思うともしかしたら演劇なのかもしれないとやったこともないのに思ったりする。

 夜はYasukichiさんのオンラインのコンタクトインプロ月ジャム。踊り終わって夜道を散歩した。余韻に浸りたかったからで、Yasukichiさんと一緒に踊っていると本当に踊るの楽しいなと思える。純粋に楽しいってそう思える。本当になにも言わないし、多く喋らないのだが、だけど体は物語っているように思え、画面越しではあるが、体どうしで対話しているそんな風に思え、笑っていて、喜んでいて、子供みたいだねと言われた。