いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/05/14 no19

 仕事から帰ってきて昼寝をする。昨晩は即興芝居のワークだった。脳みそが少し興奮気味で夜更かしした。2時ごろまで起きていた。朝仕事に行き、どうも開いた分だけ人が入ってくる感じがする。解放した分、人の出入りや関わりが生まれる。これは勝手なことを言ってるだけなのかもしれないが、よくある。だからまた徐々に閉じていくのかもしれない。完全に閉ざしてしまうわけでもなく、おそらくそのままのテンションで生活を送るとまた疲弊するだろうから、徐々に内にこもっていくようなそんな感じなのかもしれない。

 ワークは気付いたら6日目。割と続いている。というか楽しいから続く。週一ペースは崩さずに参加している。オンラインで芝居をするというのはなんかあってる感じがする。人目もあるが、みられていることに恍惚感を覚え始めたらいいのかもしれないし、それでも結局人目をきにしているのかもしれない。毎回やってみたいことがある。昨日は頭を使わない状況に自分を持っていいってみたかった。その中で関わった時何が生まれるのかみてみたかった。結果のことはよくわからなかった。だけど、やってみたという実感はあり、それがやりたかったことだから、そういう小さなやりたいことを積み重ねる。これが現実だと少しやりづらいのだろうか。とはいえたまにむき出しにしてしまうこともあり、それでもやってける場所であるから今の朝の仕事は続いているのかもしれない。感情とか気持ちはぶつけ合わない、なんとなく飲み込む、そういう感じが苦手なのかもしれない。だったらいっそぶつかり合って、空中で弾けて転がっていく様がみたい。その瞬間だけの後腐れないやりとりの場が必要であるようにも思うし、それを職場に求めても仕方ないし、だけど芝居の関係ならもっと現したいものを現せるそんな空間があるのかもしれない。

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 芸術が医術に思えることがあり、僕が僕に対してやっていることがセラピーのように思えてしまうことがある。そこから離れようとしてみても、結局セラピーのような状態になる気がしている。自分が満たされたり、癒されたりしているように思う。やりたいことをただやる、無我夢中にそれだけを追い求める。ちょっとケモノのようでもある。芸術をすることは健康のためであるのかもしれない。精神衛生を良くするためで、呼吸とかうんちとかそういうものと一緒のように思える。排泄行為なだけで、至極当然のことなのかもしれない。自分自身に対して医術を施こす。芸術療法っていう形が自分にはあっていたのかもしれない。何を自分に施したかったのかよく分からない。だけど浮き沈みがあって、それは気分の。病院に行くと躁鬱と見立てがつく。なんとなく見立てだと思っている。もうしばらく病院にも行ってないから、躁鬱という側面を持っている人間として生きてみてる感じかもしれない。どっちかといえば落ち込みが激しいほうなのかもしれない。自分を責め立てる行為が多いと思えば、他人を責め立てて自分が窮地に立たされる。そんな自滅行為をしていたが、最近はといえば随分落ち着いているようにも思える。布団から出れないとか、仕事に行けないとかそういうことはほとんどない。単純に仕事に行きたくない時はある。とはいえ1日の労働時間は最大でも5〜6時間だし、今はもっと短くなっている。それに八百屋だから体を動かすことが多いのもあり、それはかなり体質に合っているように思える。嫌だと思ったらその場を離れやすい。配達用の車に乗ってしまえばいいし、そっぽを向いて場所を変えてしまえばいい。あるいはトイレに駆け込むとかして。一人になったら発狂してみたり、呪文のように苛立ちや悲しみや絶望を羅列すればそのうち忘れていたりもする。陽気に歌ったり、体を伸ばしたりして出来る状況は良いのかもしれない。多分オフィスワークとか、同じ場所に居続けなきゃいけない、拘束感は体に合って居ないのだと思う。

 すっかり話が逸れているが昨日のワークはひとつ挑戦してみることができて楽しかった。もしかしたら芝居とか演劇とかやることがすごく好きなのかもしれない。自分を存分に扱えることであるし、一番怖いとも思ったりしたが、今はとにかく楽しい。どんな自分でも出してみる、扱ってみる、過度に自己否定しない、反省しない、その時現れたものが全ての人に必要で、大切な行いで、きっと動かされてやっていることで、うまく行った行かないなどはどうでもよく、その時の感覚に焦点を合わせて、より素直になり、赤ちゃんみたいになって存在し続けることが僕にとってとても大切なことのように思えた。