いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/05/18 no22

 最近、即興芝居をしていると言語が強いなと感じる。言葉が優先されて、感覚は後回しになっているような感じなのかもしれない。それが今の状態のように思えて、なんとなく今寝転がってたら体がすごく固まっている感じがする。最近あまり踊れてない。だからいま体揺らしながら書いている。もう少し柔軟であればいいなと思うし、体が柔軟でありたいと思う。

 言語が強いことも別にいいなと思えるようになった。ただ説明的すぎたりするのも面白くなかったり、もっと静かにしていられるはずなのに、それが出来なくなっていて、そういいながら今、文字書いてるし、これは言語が強いんじゃないかと言えばそうだし、もう少しどちらも行き来できるようにしたい。これも結局書きたくて、喋りたくて書いていて、もう少し体に意識を向けたい感じもする。だけど、どれもこれもそんなに自分自分してないというか、結局中身は空っぽで、入れ替わり立ち替わりいろんなものが入っては出てを繰り返しているように思えて、いろんなものを入れ込んで、これだとどうなるか、その日ハマりそうなものを芝居に当てはめてやっている感じもする。どれも自分のようで、自分じゃなくて、自分だったりもする。

 言葉が優先になってる時、それは知っていることを言っているだけのようにも思える。知っているから、早くそこにたどり着くように言葉を使って行き着こうとしてる。「スタートの設定」が大切なんだなと思えた。知っていることをなぞっているとやっぱり、退屈してくる。それはもう知っていることだったりするから、自分の中で上滑りして、なぞっているだけで、自分を自分で退屈させているんだと思った。じゃあどこに身を置けば退屈せずに、ワクワクしたり、ドキドキしたり、新鮮な世界が見れるのかと思った時やっぱり始まる場所なんだと思えて、もう知っていることじゃなくて、知った先から始めてみる、そこで何が起こるのかを楽しめたら嬉しいし、きっと自分を退屈させないですむのだろうと思えた。でもやってみて知れたというか、やっぱり知ってることを即興芝居上でやっているのだと思った。知っていること、すでに情報として分かってること、それを演技してしまってて、それだと自分はやっぱり退屈している。だから知らないところからスタートする。その確認作業も自分から取れたらいいのかもしれない。「いま、イメージでここまで物語があります。ここから始めてみるのはどうですか?」みたいな。そうすれば興味深い、まだ自分も知らない時間を世界を味わうことができそうでワクワクしてくる。保険として知っていること、言わないでいることは、ただ自分を退屈させる材料になって、新鮮さを失って、ただ知ってることをどう表現するのかだけになってしまうのは自分の楽しみとは違うように思えた。

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 で、何が言いたいのかというと、踊りたいのと芝居したいのと、毎日絵描きたいのと、こうやって文章書いて、歌って、そんな風に生活していたいということのように思えた。全部楽しいし、すごく好きなんだなーと思えることが嬉しい。