いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/10/31

 なんだか最近ビーズが気になっていていたので、ビーズ売ってるのか調査をしにスワニーへ。売ってた。キラキラしてない、しっとりした感じのキナリ色などが良くて、あ、このまま勢いで買っちゃおうかなーと思ったのだけど、道具何を買ったらいいのかわからないのと、つまりまったくどうやって作るのかを知らないままきたので、慌てて買わなくていいやーと思ってそのまま本屋さんにいくことにする。ビーズの本あるかなーと探していたのだが、いまいちいいのがなかったのだがレジンで作るアクセサリーの本がむたんこ可愛くて読んでた。ヴォーグ出版だった気がする。教科書を選ぶことって大事だなと思う。つまり先生を決めるってことなのだが、そのあたりもやっぱり自分の感覚をフルに使うのだと思うのだが、miiさんはそのあたりめちゃめちゃ上手だなと思った。すいめんの衣装を作るのにいくつか本を読んで教科書にしてて、選んでた本がめちゃめちゃ良くて、テンションの上がるものだった。テンションといっても、え、かわいいウキウキ。みたいなニコって綻ぶような感じのもので、そういうものを探すって大事だよなって思う。あとは動物のフェルトの本があったのだが、それも一冊結構可愛くて、え、かわいいウキってなった。これはウキがひとつくらいな感じ。そんなわけで、ビーズでなんか作ろうかと思っていたのだが、ただウキッとするもの見たかっただけだったりもして、なんだか少しウキウキした感覚をゲットできたので、今こうして書き始めていたりする。そういえば僕って織物をしているのだが、手織り機が家にあって織ってるのだけど、時折やってること忘れたりして、なんだかウキウキするアクセサリーや小物見たら織りたいなって気持ちがウキウキ湧いてきたりしたのでした。

 気づいたらせかせかと足早に歩いていたりして、少し立ち止まるようにしていた。ふと気づいて歩くペースを今に戻す。なんだかすごい流れの中にいるような気がして、車や人や、自転車やそういうものが足早に通り過ぎていくことに影響を受けて、今の自分の歩みを忘れてしまうことってあるように思って、だから気づいたら立ち止まって、一呼吸して、気づいたら立ち止まってまた一呼吸して、そんなふうに歩いている。なんだか最近せかせかとした意識というか、流れが多くなってきたように思う。多くなってきたというのは多分量というか、あくせくしてる感じが目立つような気がする。だから気をぬくと訳も分からずその流れに飲まれてしまうような感覚がある。だからこそ立ち止まる、何もしないで呼吸するみたいなそういう一瞬がとても大切なように思う。見失わないための術なんだと思う。気づいたら何が何だか分からなくなってしまう。ものすごい情報に飲まれたりする。なので落ち着いて気に入った本とかを眺めたり、自分がウキウキするもので満たしていくのはとても大事だと思う。ほころんで、なんだか力が抜けるというか、楽になれる感じがとってもいいなと思う。

 そんな意味で、織物を始められたのがじょうたさんでよかったなと思うし、絵もトゥオンブリーに出会えてよかったなと思う。たぶん今後も僕の指針なのだと思う。

 今欲しいものをなんとなく書き出してみて、緩くなってたり、穴が空いてるパンツや靴下が増えてきたので買い足したいなーとかボディーソープそろそろ無くなりそうだなーとかそういう感じのやつ。それで書き出すと、じゃあせっせと買い出しに行かなきゃとなるのだけど、今の今は急に買い足さなくてもやってけていて、今日の今日勢い余って買いに行ってもすごく疲れるだろうから、今日は書き出すだけにとどめておいた。ビーズを買い急ぐのもそうだが、なんだか余裕なしにせかせか買ってしまう時って本当に浪費というか、循環してる感覚にならないので、落ち着いて後日買いに行こうかなーと思う。なんだか今は、落ち着いて行動するのがいい感じな気がしてる。せかせかしないで、ひとつひとつ丁寧に扱うこと。そう思うと、また創作に向かいたくなったり、スケジュールに焦ってせかせかしたりとかそういうところから抜けて、穏やかにそこに居れるような気がする。これもやっぱり都度都度、立ち止まる、意識をその場に戻すの連続なのだと思うし、思いっきり飲み込まれてしまうことももちろんあって、そうなったら何がともあれ横になって、深呼吸したり、昼寝したりがいいんだと思うし、細かく今を捉えることは、演劇してるからダンスしてるからとかじゃなく、日常にあることなんだろうなって思う。

 攻撃性は心配や不安からくるんだろうなとなんだか思い、奪われてしまうとか、そういう枯渇する感覚からの焦りみたいなものがある気がする。なくなってしまうことへの不安。そういえば結局何もかもなくなってしまったことはあったのだろうか?すべてを失ってしまったことがあったのだろうか?苦しくて仕方なかった時でも、その隙間に満ち満ちた感覚と出会うことがあったし、きっといつもそこにあるんだろうなと思うから、日々のほころんだ感じのウキウキを大切にしたいと思うのでした。

綺麗だったりウキウキに気づけるように立ち止まったり呼吸してたいのでした。

2022/10/30

 何から書いたら良いのかよくわからなくなっているところがあるのだけど、ひとまず10月16日の即興劇「すいめん」終わりました。僕のフィルム写真とmiiさんの音楽を組み合わせて、劇空間が想起されるようなものが作れたらいいなと思い作ってみた。今回、劇中に写真を撮ったりしていて、どうなるだろうかって思ったが、やっぱり撮ってみてよかった。観てくれた人がこの動画をみて、水面の写真がその時にしか表れないものが出ていて、この世を生きているのは自分なんだ、とも思った。と、感想伝えてくれて、なんだか嬉しかった。

 最近どうだった?みたいなことを話していて、うまく言葉にできない自分がいて、というよりはもうそのことは終わってしまったことだったりして、一つの区切りもついたような気がして、掘り返すのが難しいのかもしれなくて、だけどじゃあ何があったのかを伝えるとするなら、難しいと感じることや、まとまらないまま進むことだったり、それでも立ち止まったりしながら手を動かすことだったりするような気がして、だから今もそうしているんだと思う。悲しかったり、ゆらいだりしていることがあるのかもしれないし、それでも自分が楽しいと思える感覚や、喜びに満たされた時間に浸されてくというか、そういうことを今も、そうしてるんだと思う。

 ここ最近はダンスの稽古が頻繁にあって、あと二週間後に本番だったりする。茅ヶ崎の市民文化祭的なものらしく、今年で3回目。構成みたいなものはありながら、即興で踊らせてもらえる部分が多く、都度都度、実験というかとても面白い。僕は即興で踊ることが好きなんだろうし、芝居もそうだったりする。元は覚えられないっていうところから始まってるのだけど、覚えようとするとダメだけど、その場に居れるようになると自然と動ける、発することができるんだろうなとなんだか思ったりしている。子供もいるし、初めてダンスをするっていう人もいる。そういう中で、経験とか経歴とかも違う中で、だけどどうしてか、一緒にそこで繋がってるみたいな感覚になれることがあって、それを感じようとしていて、それは音楽なんだろうし、空間なんだろうし、その隙間だったりするのかもしないし、言葉とか詩とかが入り込んだりしながら、そこにある体と人と一緒に居て、その中で出会うこと、感じること、発見していくこと、そして離れてしまうことを繰り返したりして、そう思うとすごく集中してるな、没頭してるなと思って、つまり楽しいのだと思う。

 ふとした拍子にフィルムカメラが落ちてしまって、レンズを保護するというか閉じる前面シャッター的な部分が取れてしまった。ちょっと割れてしまって、シャッターも閉じ切らなくなって、つまり壊れたのだが、安く買えたものだし仕方ないよと言い聞かせる自分とか、どうしてお昼ご飯なんて食べようとしてこのお店入ったんだ、まっすぐ家帰ってたらこんなことにはならなかったのにとか、なんかつまり感情迷子で、言い聞かせようとしたり、悲しかったり、怒ってたり、喪失感だったり、どうしようどうしよう、いつもこうなってしまう、ものが壊れてしまうことが悲しいとか、大事にいつも扱えないとかそういう悲しみというか、どーせどーせみたいなことをわんわんにゃんにゃん駆け巡るのだけど、購入したカメラ屋さんに、さっきこんなふうになってしまって修理ってできたりするんでしょうか?と聞いたら、もう割れちゃってるから修理は難しいのだけど、このレンズの前にあるシャッターみたいなの取っちゃいましょうか、割れちゃった縁は接着剤でつけられると思いますよ、見栄えは今よりも良くなるかと、と言われて、お願いしますと泣きつきながら、お代は?と聞いたら、いいですいいです、すぐできちゃうんでって言われて、ありがとうございますと思いながら、本当に大丈夫だろうかと疑心暗鬼な心の狭さがかいま見えるのですが、私って本当にクソ野郎ですよね、って思うといいますか、最近そういうところも直そうとせずに、やっぱりクソ野郎です的な所存なんですが、それでもすごく丁寧に取り付けてくれて、どうしてもぽろぽろ外れちゃうところはテープで固定しましたってやってくれて、それはそれでなんか可愛らしくて、感謝の気持ちと、改めて丁寧に扱おうと思った今日この頃。

 丁寧さっていうのはきっと伝わるんだろうなって思って、誰かに丁寧に扱ってもらえないのは、自分が自分に対して丁寧さがかけるからなんだろうなと思い、そう思うともっと丁寧に、自分と関わっていけるんだろうなと思う。そういうことを言葉にできないままになってて、時間の経過だけが、流れだけが早くて、立ち止まるにしてもどうしたらいいんだろう、うまく言葉でてこないとか、上手に書けないだろうとか言って、また堰き止めてしまうよりは、そのままを現して、いまの自分を知っていくって大事だなと思ったのだ。

 なんとなくそう思えたのは、今日ハロウィンのお菓子もらって、もらう時になんか呪文となえるらしいのだが、詳細は忘れてしまって、僕って名前を覚えるのが苦手で、間違えちゃいけないなと思って呼ぶの躊躇してしまうのだけど、今日もらったふくろに"みぞえさんへ"って書いてあって、なんか間違えてることよりも何よりも、書いてくれてることとか、伝えてくれてることとか、そういうことがそもそも嬉しくて、だから間違えちゃいけないとかこわばるよりも、素直なまま伝えたり、書いたり、口にしてみたりすることを怖がらなくて良いのだろうし、この袋もらえたおかげで出来ている今なんだろうなと思った。

お菓子も、書いてくれたことも、絵も可愛くて嬉しかったのでした。ありがとう。

2022/10/15

 久しぶりに少し晴れ間が見えて、すこし重たい体を起こす。最近は体を動かすことが前よりも出来るようになった。動かすといっても大きなものではなく、部位部位を感じて動かしてみるみたいなことかもしれない。なんだか背骨の長さに気づいて、体に柔軟性が出てきた気がする。こんなに動かせるんだみたいな。そういうことをして体を起こして、一旦散歩に出かける。少し歩いて、案外暖かいことに気づく。すぐに家に戻って厚手のパーカーを脱ぎ、Tシャツと羽織れるもの着て今度は荷物を持って散歩に出かける。フィルムの現像、ご飯とおやつの買い出し、miiさんに頼まれていた製作中の衣装に使うウエストゴム。これだけで僕の頭はパンクしてしまうようで随分あくせくしながら帰ってきた。あれもこれも、もしかしたらあれも必要かとか、頭が一生懸命動き始める。そしてなにしてたんだっけ?となってなんだかゼーハーゼーハーと息が上がった感じになる。おやつはプリンとフィナンシェを買ったのだが、なんだか店員さんとやりとりする余裕が全くないことに気がついた。荷物がいつのまにか増えていて、どこに何を入れたら良いか、財布は持ったか、miiさんから預かってるお金を財布の別のとこに分けてしまってなどタスクが多くて、つまりテンパっていた。僕は容量が少ない。一つのことをやるだけで精一杯なのかもしれない。それなのに色んなことに手を出してる。だけどその時は一つのことに集中している気がする。同時進行で色んなことをしなくてはならないとテンパるし、イライラしたり、疲れてしまったりするんだと思う。買ったものを早くしまわなくちゃとか、変な奴と思われないようにまともな振る舞いをしなきゃとか一生懸命なんだと思う。そうやって無意識に頑張っているから、もう誰とも会いたくないと言ったりする。それでも明日は人前で即興劇をするのだが、そういう状態だときっと疲れてしまうだろうなと思うから、もっと自分のペースで立ち止まって、ひとつひとつのことをできるように、人目に左右されている自分に気がついて、ゆっくりとそこに呼吸しながらいれるように、というのは本当に日常の中でのことなんだろうなと思う。日常で人前に出ることが嫌なことばかりなんだとしたら、人前に出て表現をするなんてもっと恐ろしいことになりかねない。だからやっぱり何がともあれ、日常の些細な出来事、一つ一つのことを演劇だと思い始めると、とても暇とは言ってられないような気がした。

 駅前の写真屋さんにフィルムを現像出してる1時間の間、どこかカフェで休憩することが多い。多いと言うか今のところ毎回現像出しているときはそうしている。今日は熊本にある橙書店の田口久子さんの橙が実るまでを読んでいた。なんだかどこかで探している感覚がそこにはあるように思う。読みながら、自分の記憶や感情が表出していることを感じる。探していると思った。それは土地のなのかもしれないし、自分が根付くべき場所をずっと探しているように思えた。この場所で生きていこうと思う場所なのかもしれない。自分が地元と言えるような場所がどことなくないような気がしている。子供の頃から同じ場所に住んでいたが、それはどこか自分の家であるようには思えずにいた。それは感覚的なことで、実際は東京の江戸川区が地元ですと言うのだと思う。じゃあ感覚的に探しているものはと思うと、どの地面に足をつけて、どんな気候で、空気を吸ってその場所に根付いていくのだろうか、そんなことをずっと探しているように思う。鎌倉に住んで5年ほどが経った。すごく気に入っている。もしかしたらここにあるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。ただ鎌倉の駅前のレクセルでアイスコーヒーを読みながら本を読んでいるとき、なんだか故郷のような場所をずっと探しているんだとそう思った。

 なんでだろうか、そこは借りぐらしのような場所に思えていた。賃貸ではない。持ち家だったのだと思う。だけどいつからかここはもう自分たちの家じゃなくなったと言われたことをよく覚えている。金銭的なことで、持ち家ではなくなったのだと思う。それからしばらくその家は残っていた。だけど居住スペースは少なくなった。4階建だった大きな家は、1階、2階と学習塾や水泳ジムみたいなものが入って、階段を上って3階から家に入る。なんでか裏口から家に入るような感じになっていた。高校生の時だと思う。書きながら、自分の実家は持ち家でビルだったことを思い出した。一軒家と言うよりも持ちビルだったということなのだろうか。そういうことをあまり詳しく知らない。知っている実家はもうなく、引越しをしたと連絡きた。昨年末だった気がする、まだ新しい実家なのか、親の住まいを知らない。今度会ったらいろいろ聞いてみようと思う。なんだか家のことをあまりに何も知らないような気がしてきた。

 さて今日はこれからオンラインで明日に向けての話し合い。そのあと11月にあるダンスの稽古にいく予定。お昼は豆乳うどん作ろうかな。miiさん本当にずっと作っている。すごいなぁと思うと同時に、作る人って本当に朝から晩まで作り続けるんだと驚いている。僕は多様に短時間集中型なのだと思った。

2022/09/26

 どうもお若いのに、と貴婦人が、もしかしたら貴婦人風だったのかもしれないが言って、ああ、とんでもないと寝ぼけた声で言った。細い路地だったから道を譲った。譲ったというよりは立ち止まった。狭い道で交錯するには貴婦人の荷物は少し多かったし、体との距離感を取りたかったからそこに立った。貴婦人は通り過ぎる時にそんな風にいうもんだから、電車を待ってたら割り込みしてくるババア、あんまり言葉選ばずに言ってるが、そんなおばちんも居れば言葉に出して伝えてくれるマダムも居たりして、なんだかいろんな気持ちが交錯しているように思う。

 楽しみにしていた坂口恭平さんの新しいアルバム、海についてが届いた。きっと聴きながら絵を描きたくなるように思って、紙を買い出しに行った。結局いまは聴きながらこうやって書いているのだが。

 あまり言葉がなくても良いのだろうなと思う。言葉として発する時それは音楽であって、言葉の意味以上に音として受け取っているし、体に響いているから、喚き散らかした声を聞き続けることがどれだけ悲しいか、虚しい気持ちになるか、無視され続けている叫びをいつまでもいつまでも見て見ぬ振りをしてやり過ごすその発狂に近い声にもううんざりしたのだろうし、これからもきっとうんざりし続けるのだろうと思う。口をつぐむこともまた音楽なのだろうと思う。そこに静寂を置いてみることで、きっと何か違ったものが聞こえてくる。それに感じていたりするのだろうと思う。苦しみや悲しみに共感するほど暇じゃないのかもしれないし、丁寧な日々とは程遠いそのやりとりは果たして何なのだろうか。

 即興だから何でもいいわけではないのだと思う。何をしても良いわけではないし、何をしてもいいのだと思う。どちらにせよ、好きにやったら良いのだと思うし、きっとあなたもそうするのだと思う。誰とも仲良くするのも自由だし、誰とも仲良くしないこともまた自由なのだ。自分で決めればいいし、そのどちらを選択するにせよ痛みや苦しみはあるのかもしれない。表裏一体で心地よさもきっとあるのだろうし、だったら心地よさを見つけたい。それでいて苦しみも忘れないでいたいのかもしれない。それは今までのあなたなのかもしれない。寄り添おうとしていたのかもしれない。できるだけ聞こうと思っていたのかもしれないし、それが優しさだとすら思っていたのかもしれない。そうやって一体化した他方の声が、体を蝕んでもう嫌になった。いまは欲しくないし、これからも欲しくないかもしれない。ただ体調が良くないだけかもしれない。緊張していたのかもしれない。何も言いたくなかったのかもしれないし、何も言えなかったのかもしれない。何であるにせよ、その時味わっていること、そうなっていることを大切にしたらいいし、それ自体を味わえることが何よりも大切なのだと思うし、きっとこれからもそうだと思う。

 言葉から離れようとしながら、今も結局書いているし、言葉を聞いているのかもしれないが、これは響きについてのことだし、意味のことではないし、物語のことでもない。ただいまあるものに耳を傾けているだけだから、ただ流れの中にいるだけなのだ。だからこれは瞑想なのかもしれないし、ただ自分を落ち着かせるための自己満足の作業であるのかもしれない。整理するための行為ではないし、結論を探すための行為ではない。そんな安易なやりとりではないのだ。きっと無性に腹が立つこともあったのだろうし、きっとこれからもあるのだと思う。その時だってまた似たような感情や感覚を抱くのかもしれない。出来事はきっと起き続けるのだろうし、きっとこれからもそうなんだと思う。だから出来事を矯正しようとは思わないし、変化させたいとも思わない。外の世界に期待をしていないし、つい最近までは期待していた。だからそうやって日々変化していく所在といつも一致しようとするし、きっとこれからもそうするのだと思う。蝶々が花の上で舞っていた。いまかいまかと待ちわびてもいた。飛び立たないでそこにいた。だからなんとなくそこにいたのだ。それはほんの数秒のことかもしれないが、それがそのときすごく大切なことだったんだとしたら、どうしてそのことを忘れてしまうのだろう。嫌いであるにせよ、好きであるにせよ、いつまでたっても好き嫌いはあるにせよ、わざわざあなたの世界に嫌いを入れる必要はないのだと思う。好きなものに溢れたらいい。嫌いなものは存在していたらいいし、そこにいたらいい。だがその場を共有するのだとしたら、嫌いなものも配慮してもらいたいと思うし、そのために口を閉ざすのだと思う。配慮のなさに慄いたりするのだと思う。一体何を共有させられているのだろうと、たまらない気持ちになる。そういう苦痛があったとして、結局疲れ果てたとしてもあなたは帰ってくるのだと思う。いつだってここに部屋があって、あなたはそれらを容易にそれでいていつも手段を忘れながら、気づいたら作り上げていたりするし、結局それはどれもこれも勘違いかもしれないのだが。

誰に向かって祈ってるんだ。自分に向かって祈ればかもの。

2022/09/25

 なんだかまだ夜みたいな朝でそれでもなんか散歩していたのですが、家を出た途端にリスが慌てて動き出したりして、いやいやなんもせんがなと思いながらカメラを向けている僕はなんというか自分勝手のようにも思えて来たし、トンビがゆっくり旋回していて、なんでなのか蜂が多い気がして、とにもかくにも蜂が飛んでると体がこわばって、ビクッとなって緊張する。怖いと感じている。刺されたら死んでしまうと思っている、ものすごい痛みに襲われて皮膚が腫れ上がって大変なことになるとなんでか思っている。実際に刺されたことはない。ただ裏道を歩いてたら無数の蜂がいて、結構あちらも本気っぽくて一人でうわぁぁぁぁと言いながら逃げたことはある。多分去年だった気がする。そんなわけなので蜂は危ないものだ、危険だ、となんでかとても思い込んでいる。本当に危ないのかもしれないが、死を予感させるくらい怖いと思っているのは、子供の頃に蜂は危ない、危険だと言われてた気がして、それでいて黄色と黒の色味って危険を連想させる感じで、しっかりこれは危険なものだ!とある種一方的に察知するようになっているのだと思った。

 ここ数日なにがともあれ眠たい。水星逆行、秋分の日、新月間近などなどそういうことが重なってるらしい。そういうの大抵教えてもらって、ああなるほど!自分のせいじゃないのかってなったりしている。視点がすこし上がるのだと思う。気分の重たさに引っ張られて、気づいたら否定的な状況を自ら作り出していたりして、もっと世界は広いのだろうし、それでいて一つの小さな体で生きていて、それでも無数になんというか星はあるんですよねと思ったりして、それで昨日は泡沫と絶頂のワークショップでした。とっても良い時間だった。りゅーたくんのファシリテーションとても好きだなと思うし、所々の声かけが視座を変えてくれたり、高めてくれたり、それでいて現状のままで良いんだって許容できる。僕もコンタクトインプロって好きだなと思う。なんでか続けている。自律神経を行き来しているのかもしれない。なんというかそこにはプロセスがありながら、それでいて事実や素直さや、そういう状態があって、ダンスにもいろんなものがあるわけだが、どうしてそんなに動き出さなきゃらならないのか、動きはもう止まっていないか、それはもう決められた枠組みの中で存在しているだけではないか、そういう疑問のようなものを、それでいて動かないこと自体も一つのパターンだったりするのかもしれないのだが、それでも内分泌系は豊かに動き始めていて、その静止状態だからこそ噴出する感覚とかがあったりもして、なんというか、どっちでもいいんだなと思って、どっちにも自由に行き来できる視点や柔軟さ、それでいてやりたくないときはとことんやらないことに集中するし、やりたいときはやればいいし、そういう欲求を大切にしたいとなんだか改めて思った。

 言葉を交わす機会がとても増えている。どちらかといえばこんな風に一人でしゃべっていることが多かったのだが、最近は言葉そのもので音声でやりとりすることが増えた。そのせいもあってか眠いのかもしれない。音を聞いているから揺れていると思う。振動だから、その響きを聞いたり、放ったりして、そういうことを繰り返すってなんてエネルギーを使うんだろうってとても思う。絵を描いたり、こうやって書くことで消化されるもの、それで満足できるものもあって、言葉よりも身体的なコミュニケーションを求めることもやっぱりあるのだが、それでもどうしてか言葉を使ってやりとりをすることにいつだって挫けてもチャレンジしてしまうのは人間の常なのだろうか。言葉を交わすことその交流が嬉しいのかもしれないし、そこで感じるあらゆる感覚を、それが快であれ不快であれ、どちらも体験することを求めていて、それでいてその交流できている時の絶頂は心地よいのだろうし、それは他者との言葉のやりとりもあるのかもしれないし、自分とのそのコミュニケーションで至ることもあるのだと思う。

 木曜日ムリウイさんとの打ち合わせ。即興についての話になり、なんだかわからないなりに言葉を交わしていた。場を作ることそこで即興の演劇をすること。様々視点があるにせよ、自分たちで決めて行くことがとても大切なように思えた。即興だからこそ準備や言葉を交わした数、場の設定みたいなものはすごく重要な気がしている。地味な部分で表立たないところではあるが、自分でやるならすごく大事にしたいことだ。付け焼き刃な表現形態ではなく、たくさんやりとりをしながら作って行くことがすごく大切だと思う。ミゾイキカク案件に関していつも夏子とmiiさんに空間を作ってもらうのはそこが自由であるという場の設定を作るためだと思う。もしかしたら僕がその空間に安心しているのかもしれない。それでいてそこに身を置くことが好きなのだ。そこだから僕は自由になるのかもしれない。人見知りや海外行ってもすぐにホームシックになるわけで、ましてや人前で何かするなんて怖いと思うのは相変わらずで、そういうことを隠したり、平静を装うことはそれなりにして来たが、それでもやっぱりいつも不安だったから、自分の好きな空間に僕は身を置きたいし、そこなら不安であることもまた素直にその場に差し出すことができるように思った。

そういえば昨日の帰りエスカレーターの手すりに鳩が止まってた。あれなんで動かないで止まってられるのだろう。

ラーメン食べてたら秋になったみたいな日。

 いんやぁ〜疲れたんわーんなんて言ってたら、ねー疲れるよねこの気候の変動だと〜なんて言われて、あ、いま独り言でしたなんて言いながら、天気に体をなじませるというか、変化して行くものにちっと待ってくださいなぁって感じでもありながら、太陽堂で醤油ラーメン食べる。夏の〆だ〜なんて言ってかき氷食べた。レモン塩。この前はあんず食べた。だいたい制覇している気がする。行きつけのラーメン屋さん。

 食べてたら雨が強くなってきた。天気の話をしながら、この前雷すごかったねーとか話したりして、それで温まった体を、少し汗ばんだ体をばっちりかき氷で冷やして外に出たら随分と気温が下がってて、多分お店にいたの30分くらいだと思うのだが、こんなにも一気に秋になるものか、と思いながら、それで雨降って寒いし美術館やっぱバスで行こうかーと言いながら駅前まで歩く。バスの時刻表を見たら1時間に2本程度しか来なくて、次のバスまで15分くらいあって、なんか雨で濡れたのもあってバス乗ると寒いかもねーとなって、そのまま歩くことにした。

 極力人混みを避けながら歩いて、わりかしどこも道が狭いから、プラス傘あったりすると道路はみ出しあいみたいな感じだったりするので、そういうこともありつつの、なんか勢いでサンダルで家出たんけど、雨の日ってもはや靴濡れちゃうから裸足の方がいいよねと思いきや、なんか雨の日のサンダルって足の裏に砂らしき異物がわりかし侵入してきて、あんまり良い感触ではなくて、それでもまあタオル持ってるから拭けば良いのだが、この侵入してくるザラザラとしたこの異物は一体どうしていつもこんな風に足の裏とサンダルとの隙間に入り込んでくるのだろうと相談したら、さあー砂じゃね?ってなり、そりゃそうかみたいなことを言いながら歩いて、やっぱりさっきのところ写真撮りたいと言って引き返したりしながら歩いた。

 神奈川近代美術館の鎌倉別館でやっていた沖潤子さんの展覧会に行ってて、miiさんはショック狩りにあったらしい。ショック狩りとは人の作品なんかをみて、羨んだり、くそーと思ったりする、その言い表しづらい、いろんなものが入り混じった感情的なものをショック狩りと言うらしい。作品は布や刺繍を使ったもの、窓枠なんかを使った額装、展示の空間はとても素敵だった。miiさんも布や刺繍なんかを自分でするからそう言う部分と比較が多少あったらしい。僕は僕で、僕には刺繍のような根詰めた作業はできないから〜ははは〜って感じで話してた。天井から吊るされている額、布から生まれる影とか、そのすこしの揺らぎとかがとても良くてしばらく座って眺めていた。紫陽花が好きだった。あと、いくつかの作品をつなぎ合わせた物もとても惹かれた。

 そういう僕も、そういえば最近比較の状態に入って辛くなったり、苦しくなってしまうことがなんどもある。特に写真に関して強く比較に入ってしまう。絵はだいぶその辺り和らいだ気もする。最近フィルムカメラ買ったのもあるかもしれない。いいの撮りたいみたいな欲求とか、フィルムの枚数に限りがあるから、無駄遣いしないようにとかどこかで思ったりしている。そういう部分が未だにある。もったいないとか、うまくやりたいとか、どこかで湧いてきたりする。そういうのも含めて、自分を縛り付けていたりして、それじゃ楽しくなくなるし、撮りたい時を撮れなくなってしまう。そんなわけなので最近の戦法は、今の自分で100点満点と呟いてる。いまそうやって湧いてること、比較していること、その状態自体も100点満点。直そうとしない、正そうとしない。湧いてきたものを100点満点と言ってあげる。油断すると嫌な気分が出てくる。だから今の状態で100点満点と言う。そうすると、そうだそうだそれでもいいんだってホッとする。そうやってホッとすると、生まれていた比較や抵抗なんかが和らいで行く。今日は気付いたら写真をたくさん撮ってた。あ、結構撮ってたな〜と少しもったいない精神が湧いてくるが、それも今の自分で100点満点としてあげる。ほしたらなんだかまた散歩したくなって、また写真撮ってみたいなそんなことをしてて、あなたは本当に散歩が好きなのねって褒められた。

 10月はインスタレーションの演劇、11月は毎年お馴染みになってきた子供たちとダンスするや演劇とダンスを混ぜて作品を作ることになった。そういうことが僕のスケジュールに入ってきて、やっぱり怖いなと思ったり、不安になる。めっちゃ楽しみだぜ〜!ってきっといつもそこまで思わないのかもしれない。そう思えないいまも100点満点ってことにしている。本当はワクワクしたり、楽しみで仕方なかったり、そういうポジティブっぽい状態を羨んだりするが、そういう弱さみたいなのも一緒にありながら、それでもなにか表現するってことができたらいいなって思う。不安でも心配でも堂々とそこに立っていれたらいいなって思う。

 今日は少しだけギター弾いた。周りを気にせずギター弾いて歌える環境に住みたいなぁ、なんて思った。

【公演のこと】即興劇「すいめん」 2022.10.16 Sun. @カフェムリウイ

 10月に向けて動いている真っ最中というか、作っている真っ最中というか。即興で表現をする、なのでとくに決まった何かがあるわけではない。だから当日ギリギリまで始まるまで、そこになにを現したいのかを言葉にしたり、伝えたりしながら自分自身に触れていく。それでいてそういう時間全てをその場に置いて、はっきりとしないその時間から離れて、その場に身を置くみたいなことができたいいなと思って。

 ゆらいでいる空間から、すいめんから、記憶の断片のようなものが現れて、そっと触れるように、少し手のひらに置いて眺めるようにして、そのまなざしや感触から、いまあるせかいに触れてもらえたらいいな。

 

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即興劇「すいめん」

 

2022.10.16 Sun. @カフェムリウイ

 

出演 はらうらら / 溝井孝司 / 村山香菜

制作 ミゾイキカク

時間 18:00 open 19:00 start

料金 ¥2,500+one drink

ご予約 mitenkoten@gmail.com

件名に「すいめん申し込み」

本文にお名前、連絡先、予約人数をご記入ください

 

 

買ったばかりのフィルムカメラを持って散歩してたら

奇跡みたいな瞬間がやってこないかなぁと

なんでかずっと期待してるなぁと ふと思って

奇跡とやらはすぐそこにもうある気がして

何も気づかずに通り過ぎてて

なにか欲しいものある?って聞かれたら

現れた今に喜びを見出せる感受性が欲しいって

言いたいかもしれない 言わなくてもいいかもしれない

 

現れる言葉やちょっとした体の変化 

味わい感じている今を通して生まれる 表現に満たされた空間 

思う存分身を浸したくなる そんな時間になれば良いなって思います

 

インスタレーションのような公演になります。

開演前、終演後も少しの時間ですが空間に身を置いていただけます。

絵、写真、布、立体、くさばななどから作られる空間と台本のない物語をお楽しみください。

 

 

〈ご来場される際のお願い〉

マスクの着用、ご自宅での検温、会場での消毒などご協力をお願いします。

体調が優れない場合はキャンセル料など発生しませんのでゆっくり休んでください。

その際は、当日15時までに「mitenkoten@gmail.com」にご連絡いただけるとありがたいです。

どうぞよろしくお願いします。

 

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ぜひぜひっす。