いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/09/26

 どうもお若いのに、と貴婦人が、もしかしたら貴婦人風だったのかもしれないが言って、ああ、とんでもないと寝ぼけた声で言った。細い路地だったから道を譲った。譲ったというよりは立ち止まった。狭い道で交錯するには貴婦人の荷物は少し多かったし、体との距離感を取りたかったからそこに立った。貴婦人は通り過ぎる時にそんな風にいうもんだから、電車を待ってたら割り込みしてくるババア、あんまり言葉選ばずに言ってるが、そんなおばちんも居れば言葉に出して伝えてくれるマダムも居たりして、なんだかいろんな気持ちが交錯しているように思う。

 楽しみにしていた坂口恭平さんの新しいアルバム、海についてが届いた。きっと聴きながら絵を描きたくなるように思って、紙を買い出しに行った。結局いまは聴きながらこうやって書いているのだが。

 あまり言葉がなくても良いのだろうなと思う。言葉として発する時それは音楽であって、言葉の意味以上に音として受け取っているし、体に響いているから、喚き散らかした声を聞き続けることがどれだけ悲しいか、虚しい気持ちになるか、無視され続けている叫びをいつまでもいつまでも見て見ぬ振りをしてやり過ごすその発狂に近い声にもううんざりしたのだろうし、これからもきっとうんざりし続けるのだろうと思う。口をつぐむこともまた音楽なのだろうと思う。そこに静寂を置いてみることで、きっと何か違ったものが聞こえてくる。それに感じていたりするのだろうと思う。苦しみや悲しみに共感するほど暇じゃないのかもしれないし、丁寧な日々とは程遠いそのやりとりは果たして何なのだろうか。

 即興だから何でもいいわけではないのだと思う。何をしても良いわけではないし、何をしてもいいのだと思う。どちらにせよ、好きにやったら良いのだと思うし、きっとあなたもそうするのだと思う。誰とも仲良くするのも自由だし、誰とも仲良くしないこともまた自由なのだ。自分で決めればいいし、そのどちらを選択するにせよ痛みや苦しみはあるのかもしれない。表裏一体で心地よさもきっとあるのだろうし、だったら心地よさを見つけたい。それでいて苦しみも忘れないでいたいのかもしれない。それは今までのあなたなのかもしれない。寄り添おうとしていたのかもしれない。できるだけ聞こうと思っていたのかもしれないし、それが優しさだとすら思っていたのかもしれない。そうやって一体化した他方の声が、体を蝕んでもう嫌になった。いまは欲しくないし、これからも欲しくないかもしれない。ただ体調が良くないだけかもしれない。緊張していたのかもしれない。何も言いたくなかったのかもしれないし、何も言えなかったのかもしれない。何であるにせよ、その時味わっていること、そうなっていることを大切にしたらいいし、それ自体を味わえることが何よりも大切なのだと思うし、きっとこれからもそうだと思う。

 言葉から離れようとしながら、今も結局書いているし、言葉を聞いているのかもしれないが、これは響きについてのことだし、意味のことではないし、物語のことでもない。ただいまあるものに耳を傾けているだけだから、ただ流れの中にいるだけなのだ。だからこれは瞑想なのかもしれないし、ただ自分を落ち着かせるための自己満足の作業であるのかもしれない。整理するための行為ではないし、結論を探すための行為ではない。そんな安易なやりとりではないのだ。きっと無性に腹が立つこともあったのだろうし、きっとこれからもあるのだと思う。その時だってまた似たような感情や感覚を抱くのかもしれない。出来事はきっと起き続けるのだろうし、きっとこれからもそうなんだと思う。だから出来事を矯正しようとは思わないし、変化させたいとも思わない。外の世界に期待をしていないし、つい最近までは期待していた。だからそうやって日々変化していく所在といつも一致しようとするし、きっとこれからもそうするのだと思う。蝶々が花の上で舞っていた。いまかいまかと待ちわびてもいた。飛び立たないでそこにいた。だからなんとなくそこにいたのだ。それはほんの数秒のことかもしれないが、それがそのときすごく大切なことだったんだとしたら、どうしてそのことを忘れてしまうのだろう。嫌いであるにせよ、好きであるにせよ、いつまでたっても好き嫌いはあるにせよ、わざわざあなたの世界に嫌いを入れる必要はないのだと思う。好きなものに溢れたらいい。嫌いなものは存在していたらいいし、そこにいたらいい。だがその場を共有するのだとしたら、嫌いなものも配慮してもらいたいと思うし、そのために口を閉ざすのだと思う。配慮のなさに慄いたりするのだと思う。一体何を共有させられているのだろうと、たまらない気持ちになる。そういう苦痛があったとして、結局疲れ果てたとしてもあなたは帰ってくるのだと思う。いつだってここに部屋があって、あなたはそれらを容易にそれでいていつも手段を忘れながら、気づいたら作り上げていたりするし、結局それはどれもこれも勘違いかもしれないのだが。

誰に向かって祈ってるんだ。自分に向かって祈ればかもの。