いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

実況中継的に口から発話していることとか。

 雨が降っていて、開けている窓から風が入ってきていて、いくつかの連絡の返信があって止まってるところだったりしながら、なんとなくいつものように絵を描いて、といってもなんだか日々変化している感じがして、今日の音楽は何にしようかと思ってColleenにする。

 一つ一つを感じてみようとなり、昨日から口に出している。一つ一つの行動や感覚、変化を口に出して実況中継している。その時の言葉のチョイスも心地よいものにしようとしている。体をマッサージする時に圧をかけると言うよりも「重みを乗せてあげる」の方が優しい感じがして心地が良い。深い呼吸を思い出したりして、だいたい忘れてしまうのだが、何かに急き立てられてる感じだったり、慌しかったり、イライラが募ったりする時大抵は呼吸から遠のいていたり、脳みそがフル回転していたりしていて、次から次へとめまぐるしい現実が現れるのだけど、呼吸に立ち返ることはそこが自分の存在するスペースになるし、いつでもそこに戻れることを知っていると気が楽になったり、落ち着けたりして、目を閉じたりして、じんわり広がる呼吸みたいな流れとか、骨盤が揺れていること、やわらいでいくことを感じたりしていて、今起きていることを丁寧に、一つ一つ追っていくと身の置き場に困らなくなるし、不安になってどこかに行こうとしなくてよくなるし、隅々まで感覚を味わっていくのがとても良いと思って、そこに立ち返る。

 岡田さんの授賞式の映像を観ていて「愉悦」と言ってて、あまり使わない言葉だったのだが、そのチョイスに面白みを感じて、作る人々への愉悦の共有みたいな、それは共有されることがないものだが、その共有されない、一人で味わっているその愉悦について語っていて、一人で何かに向かう時のその共有されない内側で起こっている壮大な経験を、なんとか共有できないだろうかと、もしかしたらその最中、真っ只中にいる時にどこかで共有されているのかもしれないし、やっぱり知ってるのだろうし、言葉から受け取れる情報が言葉以上の何かが響き合っていたり、受け取っていたりして、そういう体験を続けていくことがもしかしたら贅沢のなのかもしれないし、贅沢したっていいよなと思いながら、なくなっていくものに目を向けてあくせくしたりするのだが、それも結局自分がいまどこに立っていて、何とつながっているかだったりして、不平不満を述べれば、いつだってそこに佇んでいられるし、じゃあ私にとっての喜びや、楽しみはどこにあるんだ?っていつもいつも嘆いていたり、なにもわからないと投げ出したり知ることもあるのかもしれないが、今は概ねそんなことはなくなってきているし、わからなかったことが、どうしてもわからなかったことが、少しずつわかってきて、言葉にできなかったことが、そのままでよくなっていって、ただ喜びの感覚としてあって、体験として積み重なっていて、体や表情や言葉の羅列がいつも何かを知っているというか、わかっているというか、信頼できるのはきっと自分の感覚なんだとわかりながら、周りに多くの人々が存在していて、すぐに、信頼すべき感覚とは遠ざかっていって、どこにいるかわからなくなったりする。だから一つ一つを口にしている時間は自分の感覚なのだろうし、外に向かっていって、戻れなくなってしまう時も、戻れないなんてことはないのだが、戻り方がわからなくなって慌てて「自分への戻り方」なんてネット検索して、そのうち何を調べていたのかも忘れて、なんだかわからない動画を、オススメされるがままに見続けたりして、そのうちもう行き止まりになって、いい加減にしてよって誰かが叫んで、ハッとして目を覚ますみたいなことがあったりなかったり。

 感覚的な人っておそらく自分というものがなくて、常に流動していくし確固たる軸みたいなものは常に変化していって、柔軟であるから受け入れられるのだろうし、受け取り過ぎてしまうこともあったりして、とはいえ身体感覚が育まれていないと大雑把な感情になりかねなかったりして、だからこそ丁寧に自分を知っていくことは常に必要だろうなと思ったりして、そういうとなんだか大変な気がするのだが、結局居心地よく、安心して、リラックスした状態に戻れたら良いのだろうなと思って、今あること、見えてること、感じてることを独り言のように呟いたりしながら、といっても、それらがイメージの中で共有されたりして、そういう言葉以上の言語を発達させようとしていて、発達というよりは、なにかとってつけるというよりは、ただただ元あった状態に戻ろうとする営みのようなもので、なもんで発達障害なんてものは一体なんなのだろうかとよくわからなくなって、HSPじゃない人っていないと思うし、なんとなく弱さを口に出すことと、弱さをひけらかすことは違うように思えて、一体なんでそんなことを言ってるのかよくわからないのだが、なんらかの生きづらさがあったとして押し売りしてもしょうがないから、ぐちぐち言いたくなる状態から抜けるために、ブツブツ逐一自分の瞬間を口にして今にいようとするのだろうし、やってることは感覚として止まっているものを独自の言語として、それでいて共有できるイメージとして創造していて、それでいてこの瞬間は愉悦に包まれているんだろうなと思ったのでした。

不思議な顔のパン。