いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

連なりのひとつひとつを見たこと。

 ローソンにティラミスとダブルエスプレッソラテ買いに行こうと思って外に出て歩き始めたのだが、なんだか後ろ髪引かれる感じというか「あれ、そんなに飲み食いしたいだろうか?」という気持ちになり、自販機で水だけ買って帰って来た。あたまのなかで欲することと体で欲することには違いがあって、1時間ほど体の時間に没頭するみたいなことしてた。目を瞑って、ひとつひとつの連なりに目を向けるみたいなことをするのだが、動きたいそれぞれの部位と思考とを行ったり来たりしながら呼吸する。その時間はとても瞑想的なように思える。ただじっと座って座禅を組むみたいなことはできなくて、だから体が発する動きひとつひとつといるとその時に居れる感覚になれて、逆にここじゃない場所に行くこともできる。体が縮んだり伸びたりして、そのひとつひとつを味わう。どこかに行ってしまいながら、また戻って来て、涙が流れたりして、感情的ではない水の流れが生まれて、そのうち衝動的な動きや感情が溢れたりして、そのひとつひとつもまた味わったり、そのまま入ってみる。「守れなかったことへの悲しみ」みたいなものが浮かび上がって来て、どうしてこんな感覚を抱いているのだろうと思いつつ、その感覚のまま動きを続けて、その状態が終わったらまた別人のように違う動きへと連なっていく。守れなかったことへの悲しみはもう抱え込む必要がないのだろうし、誰も守ろうとする必要もないのかも知れない。幸せになってほしいとか、なってほしかったとか、どこかに向かって抱くそんな感情があることを知りながら、もう誰のことも守ろうとしなくてよいし、幸せにしようとしなくてよいのだとふと思った。きっと自ら幸せになるだろうし、僕は僕で今この時のひとつひとつと共にいることが幸せだと思うし、誰かの幸せを僕が背負う必要はまったくないのだ。いつからそんなものを背負っているのかわからないが、いつもどこかで抱いていた感覚のようなものが少し言葉になって離れて行った気がした。前世だとか未来世だとかあるかどうかはわからないが、あるのだとしたら「もう誰かの幸せのために犠牲にならなくてよいよ」と言う気がした。ただ幸せになって欲しいと思うことは変わらない気がする。ただ幸せになろうと本人が望まない限りは幸せにはなることはできないのだから、結局自分が自分を満たしてくことに没頭できる方が幸せで、その存在でいることで何か響き合っていけばそれでよい気がした。なんだかそうやって外側に向いていた矛先が自分に還ってくる時とても心地よい感覚に包まれるように思った。矛先が外へ向いていてもよいのだと思った。向いているなら徹底してその矛先を味わうことで、どうしてそんなに何かを思うのか、誰かを思い浮かべるのかを知って、その全てを存分に味わうことで、和解していくのだと思う。今すぐじゃなくても、少しずつ、少しずつ、日常の中で、生活の中で、その中に潜んでいる自分自身の世界に気づき、そちらの中へと向かって行くことだ。生活と共にあること。

 僕は内側で起きていることを見つけられるようになることにすごく喜びを感じる人間なのだろうなと思う。そうやって見れるものが広がって行くと、現れるものは自然と変化して行くだろうなと思って、だからひとつひとつを丁寧に観察して行くことだろうなと思った。今日はおかゆ作る。