いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

映画週間と苦しいだとか辛いだとかの感覚を創造へ転換するとか。

 最近はなんだか映画週間になってる。アキラ、平成狸合戦ぽんぽこ万引き家族、マルコビッチの穴、ガスヴァン・サントのエレファント。言葉にならない感覚に、停滞してる感覚に響いてきたりする。映画を見て、言葉に変換できたりもするし、より一層からだにある感覚を増幅させて、言葉ではなく存在を自覚させたりもする。エレファントは特に強くからだに響きがあって、言葉よりも感覚のまま残ってる。

 自分の中にある苦しさだとか、怒りだとか、悲しみだとか、希死念慮だとかそういうことがあったとして、それらを言葉にするとただそれだけのものになってしまう。苦しい、辛い、死にたいをもっとよく見なくちゃいけない。もっとよく感じなきゃいけない。なくすため、排除するための感覚ではなく、創造のための感覚として捉え続ける。

 どうして、苦しいとか辛いとか、言い換えて死にたいとか、あるいは矛先を他人に向けるのかが気になってる。どうしたら楽になれるのか、どうしたらもっと軽く生きることが出来るのだろうかと思い悩んでいたりする。自分が思い悩んでるのか、誰が思い悩んでるのかよくわからなくなったりする。ただ、そういう感覚になってる。からだに現れる。胸の当たりや、お腹のあたりが重たく感じる。腰に怒りの感情は蓄積するんじゃないかと思ったり、ふくらはぎをさすってあげると少しホッとできたりする。

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 明るく振舞おうとする必要もないし、誰にでも分け隔てなく関わろうとする必要もない。不機嫌だっていいし、嫌だったらすぐにその場を離れたって良かったりする。今の自分の状態を許すことなのだろうし、それを正そうとか、改めようとかしない。その瞬間の感受性はその時の自分しか持ち合わせていないのだから、誰に諭されようと関係ないのだと思う。その瞬間の感覚を守るのは自分で、自分がどう感じるかを他人に委ねる必要はない。違ってて良いのだし、違いに苛立っても良いのだ。私はこう感じています、私は今こんな気持ちです。以上。みたいな。

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 昨日はたらこみたいな雲だった。たらこ二段盛り。