いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

視点、意識、感覚を見つけていくことと気持ち良い範囲のヘドバン。

 これはもしや!みたいな気持ちになり、おやおや書くしかねーぜ!みたいなそんな気持ちにもなり、すっかり日が暮れている今日この頃。この2日間朝の仕事終わって、ご飯食べて家事やなんやして昼寝したら17時みたいな感じで、とっさに珈琲淹れて絵を描いて、散歩して、思考に意識がいってる時はヘドバンすると良いと聞いて、かといって激しくヘドバンしたら酔いそうだったので無理のない範囲で揺れながら歩いてたらとても楽しくて、ひとり静かにテンションが上がる。違う何かになろうとしなくて良いんだなと思って、あくまで自分の中にある感覚を元にしてなにかすればいい。自分の中にないことをやろうとするから不安だし、心配だし、怖かったりする。

 そうそう、怖いんだなって思って、怖いって気持ちや感覚があることをちゃんと受け止めようと思ったのがここ数日。怖いからいろんなことを口にしたり、解決しようとあくせく動いたりするが、怖い感覚をまずは受け止めるだけでよくて、無理に何かを変えようとしなくて良い。とにかく気分転換する。珈琲を淹れるとか、散歩するとか、気持ちよくヘドバンするとかそういうこともそうなのかもしれない。

 何気なく過ごしていたのだがすごく不安感に襲われる。ひとまず横になって、受け止めて呼吸する。体ももぞもぞさせる。頭でなんやかんやと判断したり、言いたくなるが、それよりももぞもぞする。時折、正義感を振りかざす時がある。その正義感が怖いのだと思った。自分が振りかざす正義感が怖いんだって気づいたのは初めてかもしれない。

 表面的には矛先を誰かに向けていたわけではなく、現れてはいないと思うが、内側の感覚は外側を罰するような状態で、それが心地よくなかった。そうやって何か正義感を振りかざす自分が怖かったのだ。だから動けない自分がいることがなんだかわかった。何か行動を起こした時、間違えたり、失敗したりした時に「ほらみたことか〜〜〜」と勢いよく現れるであろう、この正義感くんが僕は怖くてしかたなかったのだと思う。だから現状維持なのである。だが、現状維持に飽きているのである。もやーんとしていたのは、正義感くんが暴れ出すのが怖かったからで、外側に成敗の矛先が向いている状態の時に、それは結局未来の自分や過去の自分を罰していたりする。そう思うとすごく悲しくなるというか、ごめんなさいって気持ちが出てくる。そうやって少し柔らかくなる。気持ちが柔らかくなる。そうやって進んでいきたいなと思う。何かを罰したいわけじゃないのだから。

 小学校の頃ある男の子のことを罰していた。いけ好かんやつだと思っていた。何日も険悪な状態が続いて、ついに爆発した。僕は筆箱を壊されて、被害者になったのをいいことに泣いていた。だが、よくよく考えるといけ好かんと思い喧嘩腰になってふっかけていたのはこちらであるのだが、だけど、どうしても受け入れられなかった。なんか僕の領域を阻害されてる感覚になり、危険を感じて、怖かった。だからいけ好かんかった。だけどいよいよ決着が着いた時、お互い目を見て「ごめんね」って言い合った時、通じ合った時、僕の中で何かが溶けて、何かすごく広大な感覚とつながって、ぶわぁーっと意識が広がっていった。その男の子を自分の中に入れることができた。存在を認められた。何か受け入れがたい存在と和解した時、こんなにも自分の内側が広がっていくんだと小6の時思った。彼とはそれから友達になったわけでも親友になったわけでもない。ただ嫌な感覚は消えて、ともに同じ空間で存在しあって生きていた。だからなのか、なんでなのかすこし不良な感じの女の子と仲良くなったりする。中学の頃、あんまり学校に来なかったり、勉強が嫌いだったり、先生に目をつけられていたり、そういうちょっと枠から外れている女の子となんだか仲良く話したりしていた。思えば小6の時の男の子も少し枠から外れていた。勉強があまりできなかったり、少し乱暴だったり、服装も綺麗とは言えない感じだった記憶がある。だけど、そういう少し枠から外れているような人を自分の中に入れて通せる感覚があった。なんの話だっけ。

 だから僕の興味関心って、あらゆる視点や意識や感覚を手に入れることなのかもしれない。ある種とても楽しい宝探しなのだと思う。ずっとそのことに夢中なのだ。もともとある性質を活かしながらやれば、自分を失ってしまうことはないのだと思った。そういう意味で俳優ってそんなことをしているのかもしれない。先日の公演が終わり「役者だったよ」と言ってもらって、すこしこそばゆい気持ちになったが、そんな日々の興味関心が俳優には活きるのかもしれないと思った。ほんで、じゃあこれから真剣に俳優を目指そうとかやるとまた窮屈になってどんよりしてくるので好きに自由にやりたいことをやりたい時にやるのが良いのだと思うた。

 そうそう、怖いと感じている時、現状維持が続いてる時、もしかしたら一番怖いのは自分自身の罰する態度なのかもしれない。今、現状何かを罰してるとしたら、未来の自分も罰せられるんじゃないかと不安になる。僕はそうなる。だいたい頭で罰している。心で人は罰せない。だからこそあやふやな思考を鎮めて、穏やかになることなのだ。散歩深呼吸、無理のないヘドバン。そう思うともっと楽しい未来が思い描けそうな気がした。いろんな隔たりや、解離を紐解いて、新たに結び直していけたら良いなと思うのである。問題を起こしているのはいつもあやふやな思考なのだから。

 思考が悪いわけではない。思考の接続先がまだまだ不安定なのである。どこに接続するか。良いアイディアを、良い未来を築くための接続が出来ているか。それとも不安や恐怖を引き起こす意識に接続しているか。もしかしたら身体が緊張しているかもしれない。だから優しく、いつの日も幸福を見つけるように心がける。そんなことできないと思っていたが、少しずつだけど日常が味わえている気がする。生活が、日常がいつも教えてくれる。何気ない会話が、何気ないやりとりが今の自分を現してくれる。だから何も反省することはない、ただいつもいつも今を知って、それで自分はどうしたいか?を問いかけて、仲良くやっていくことなのだと思う。もう怖い思いを自分にさせなくて良いのだ。そして何も排除する必要はないのだ。