いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

素直な感情の現れとオープンな秘密の花園。

 これって自分の感情なんだろうか?と分からなくなることがあり、入ってきてるなぁみたいなそんな感じなのかもしれず、だけど体が感じていて、だから自分が感じていることのように思うのだが、子どもの頃できるだけそういうことを感じないようにしていたことをふと思い出した。ちょっとしたことで涙が出たり、怒ったり、感情が溢れてくることが多々あった。そういうことを制御するようになり、かなり押し込めるようになった。だけどもう少し素直な状態になりたいなとなんだか思う。そう思った時に、あの子どもの頃の溢れてくるような感覚というのはすごく素直な、元々あった感覚の現れ方に近いように思った。どこか抑圧的な、制御するような感覚があるのは名残なのかもしれない。だから現れている、体に起こっているその反応の量みたいなものを素直に現すことがしたいなと思っているのかもしれない。

 先週、先々週とオーセンティック・ムーヴメントが1時間ずつあった。11時〜12時で1日の中にこの時間が入ってくることがとても心地よかった。頭だけで、口先だけで語られてしまう時、なんとも言えない虚無感というか疲労感に襲われる。体が置いてけぼりになっていて、ただ表面的なやりとりだけが行われているように感じるのかもしれない。身体的な言葉とか言語。そちらに向かうように意識したい今日この頃。

 久しぶりに秘密の花園へ。めちゃめちゃオープンなので誰でも入れる。カラスが飛んで行った。また戻って来てうろうろしていた。虫の季節。虫がうじゃうじゃ歩いてる。飛んでいる。時折耳元ですごい音を立てる。蚊はまだいなかった。しばらく木の根っこに腰掛けて、歌う。声を出してみる。特に詩はいらなかった。ただ響きを感じたくて、ここにくると一人で音を出す。自分の音を聞きたいのだろうなと思う。それが心地よいし、響きを体で感じ取れると嬉しい。目を瞑る。鳥が鳴いていたり、風の音がする。風が吹いて草木が揺れる音がして、また思考に戻る。思考の続きをここで書いているのかもしれない。無くそうとしても無くならなくて、だから止めようとしないで、一旦好きに話してもらう。止めようとしている時に頭が重たくなる。だから語らせる。好きなように語ってもらう。それでいながら意識を頭から逸らして行く。体全体に目を向ける。部位部位に焦点を当てる。そうすると思考が止まったように感じるが、きっとずっと続いている。思考に耳を傾けたかどうかな気がしている。そんなに聞かなくても良いことを言っていたりする。お話好きらしい。雑談は苦手だと言いながら、ずっとずっとしゃべっている。多分、自分が好きなように、勝手に、奔放に話すことはできるのだと思う。相手がいると相手のことをものすごく意識して、なんだか自分なのか相手なのか、自分はどこにいってしまったのか分からなくなる。何が言いたいのか、何がしたかったのか、何が大切なのか分からなくなる。だけど体からは声が出てて、生まれていて、改めてそこに意識が戻ると、自分の声が生まれる感覚がある。だけどそれが常にできるわけじゃない。行ったり来たりしている。共感覚なのかもしれない。だけどそんな便利な機能は持っていなような気もする。ただ反応しているだけなのかもしれない。人から生まれる感情とかトーンに反応している。だから、自分が悲しいのか、怒っているのか、喜んでいるのかよく分からなくなる。

 分からないと言いながら、体で反応していることはわかる。体の反応を見ないように、気づかないようにしていることもわかる。だからもっと素直に感じたいのだと思った。もっと感じてあげることができるのだろうなと思った。自分の中から湧き上がっている創造物をもっと味わってみようと思う。自分が感じている。体が感じていることを大切にしようと思う。思考のことを置き去りにしたり、蔑んでいるわけではなく、それぞれの居場所や所在を相談しながら確保していこうということなのかもしれない。

 そういえばnoteに書いていた好きなことをつづける学校は若干飽きている気がする。なので更新は止まっている。飽きたらやめる。手を止めて、熟成させる。絵もそうなのかもしれない。退屈していたらやめてみる。どうせまたやる。大切なのは心地よさなのだから、心地よさを大切にする。久しぶりに声を出してみた時に、以前よりも心地よい声に耳を傾けることが出来ていたりする。体のことをもっと感じようとしている。何べんも何べんも言っている気がする。だけど忘れてしまうからまた書くのだろうと思いました。

 ずっと、常にっていう状態はきっとないのだと思う。だから、今、毎瞬、好みの感覚を自ら選択しつづけることなのだろうなと思いました。今を間延びさせてるから退屈だったり、重たくなる。瞬間を短く、もっと短くできるように思うのでした。