いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

海を見てる焦点とか、心地よい感覚の居場所とか。

 海方面へ散歩。いつからか写真を撮るようになって、基本的に散歩しながら撮ってる。身体があって、その場所があって、時間があって、いろんな条件みたいなものが重なって反応とか心が動いたみたいなそういう瞬間を撮る。だけど写真越しでは見えなくなってしまうから、カメラを持つのをやめてまた目で見る。目を使って視点を、見え方を変える。焦点を変える。焦点を使って体の反応を確かめる。変化を確認する。

f:id:mizokoji88:20211215182439j:plain

 自分の好きな視点、焦点があるように思えた。海に入ってしまったら、体からの情報が多過ぎて混乱してしまいそうな気がした。人の輪に入るとか、混じるとかよりも、少し離れて見てる状態が好きだった。混じらないわけではなく、それでも参加している。友達が麻雀しているのを一緒にやるよりは布団に入ってその光景を見ている方が好きだった。麻雀をルールを覚える気がなかったのもあるが、その競技に、行為に参加しているわけではないのだが、その場に居てそのやりとりには無言で視線で参加していたりする。

 と言いながら海に入るのはあまり得意じゃなかったりする。冬の海にはきっと入らないけど、冬の海は好きだなと思う。直接身体を海に入れないが、海を見てる目が、器官が喜んでいた。この場所が好きだと思う。この見え方、焦点、視点が好きだとそう思った。

f:id:mizokoji88:20211215183219j:plain

 お昼ご飯はサラダと水餃子。不思議な組み合わせ。パンも食べる。なんか昨日からカップ麺が食べたい気分だったので、今日こそは!と思いコンビニでカップ麺をゲットするが、その後散歩に行ったらもはや晩御飯の時間なので再びお預け。晩御飯はフェットチーネにする。きのこと豆乳で作る。

 ふと、自分が80歳とか90歳のじさま、ばさまになったとして、きっとあれが出来ない、これが出来ないと文句を言い、責めて、まもなく終わるであろう人生の直前まで何かに嘆いている気がした。もう少し寄り添うというか、励ますというか、ただ見ていることが必要だろうなと思う。そこに、速さとか、効率とか、商売だとかそういうのは必要なかったりする。ただ存在だけ見てる。何も責める必要はないし、文句言う必要もない。それでいて今の自分の不快さの感覚も大切にする。何もなくそうとしない、変えようとしない、ただ状態を観察してる。押し付け合うんじゃなく、ただ気づき合う。治そうとか、正そうとかきっと大きなお世話なのかもしれない。個の感覚を信頼する。違うことを楽しむ。各々の輪郭は自分で気づき象ってく。そんなことを繰り返し、繰り返す。

f:id:mizokoji88:20211215185645j:plain

 目の前にイライラしている人がいたり、攻撃的な態度を選択する人がいたとしても、その状態は結局どれもこれも的外れで当たらないのだから、何も怯えることはないし、淡々と見てたらいい。素直な言葉で語ったらいい。誰も傷つく必要はないのだろうし、傷つける必要もないのだから。そんなこと言いながらブワッと感情が溢れて、身体が拒否することもあるけど、それもそれで楽しんだらいい。否定する要素はどこにも見当たらないし、検閲の増えた世界に同調しなくて良いのだ。いつだって軽やかにすり抜けてく、風。