いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/04/23 no1

 また思い立ってブログを作る。最近、即興芝居やコンタクトインプロやら色々するなかで気づいたことを書き留めるのにFacebookを使うのだけど流れてしまうのがもったいないと思い、ここに書いていこうかなと。

 

 コロナの影響で外出自粛になり、ワタリさんのオンライン即興芝居のワークショップを週一で受けている。そもそもコロナが流行る前に久しぶりにまた即興芝居のワークを受けたいなと思っていたのだけど。行きたいワークが東京でやってることもあり、結局行くことが出来てなかった。僕は鎌倉に住んでいるから、行けなくはなかったのだけど。今リアルの場はどこも自粛でやってなかったりして、オンラインへ移行してる。それも出不精な僕からするとちょうど良い機会だったのかも。今は家の中で即興芝居のワークを受けることがちょっとした習慣になりつつある。先週の日曜日に3回目の参加だった。初回、2回目と緊張していたがだいぶその場の雰囲気にも慣れてきたり、その後の振り返りをすることが楽しい。

 

 ふと仕事をしながら、僕は「人にどうすれば影響を与えることができるか」を即興芝居を中考えているように思った。芝居をしている最中に気づいたというよりは、日常生活の中で、人と関わる中で他人にどうしたら影響を与えられるかを考えてることが強いように思えた。だけど、自分の感覚にも集中しているはずで、外側からの影響を受けて、自分の体の感覚、感情がどんな風に動いているかはすごく感じるようにしている。それを使って、台本のない中で目の前の人と関わりながら瞬間、瞬間を作ろうとしてる。それで「人にどうすれば影響を与えることができるか」を考えていると思ったのは、ワーク中の自分の立ち位置や、一緒に関わっている人たちの行動が自分自身に影響を与える行動や言葉であることが多くて、それを自分は発せられてるのか、自分から自分へ影響を与える立ち位置に立つことが出来ているのかなと思ったのだ。なんだかまだまだ芝居は続いているみたいな感覚なのだ。きっと終わらないのかもしれない。僕は終わってしまわないことを、完成してしまわないことを延々と続けることが趣味のように思え、それは瞬間、瞬間をただ書き記したり、絵にしたり、踊ったりしている。振り付けも、見本もなく、ただ影響を受けながら、瞬間瞬間を満足させようとしているのかもしれない。こんな風に飛び飛びになる。思考は飛び飛びになるから、それをまとめようとしてもうまくいかないから、断片的に、飛びながら書いていればいいかなと思っている。まとまらないまま書くというのが何よりも素直な状態だと思うし、たとえ読みにくかったとしても、それは誰かの思考であって、自分の思考はこれが正の状態であるように思う。このブログも結局そんなふうに使って行きたい。

 

 そうそう。それで僕は影響を与えようとしてくる人から逃げようとしているのかもしれない。それはある種の指摘だったり、指導だったり、そういうことを忌み嫌う傾向がある。なぜなんだろう。「その言ってること自分に言ってるんじゃない?」ってどうしても思ってしまうところがあり、その人の精神分析をし始め「ほら、やっぱり自分に言ってるんじゃないか」と判別してしまう。別に医者になりたいわけでも、カウンセラーになりたいわけでもない。人から言われる指摘や指導に、すごく腹立たしさを感じるのだ。「あなたの感性とわたしの感性は別物です」と言えたら気がすむのだろうか。気が済めばいいわけでもないと思うのだが。だけど即興芝居の中ではその影響を与え合うことも少し楽しめそうな気がしているのと、実際に楽しめている。相手の言葉や行動、表情や声色から影響を受けて、自分から感情が出てくる。僕はこうしたいみたいな欲求なのかもしれない。こうやって遊びたいみたいな。だから相手から受けた影響を、そのまま全て飲み込むというよりは、自分の反応を味わいながら、瞬間的に言葉や体が動き始める。その瞬間を楽しんでいたりする。だから時折ハッとする。今ひどいことをしてるとか、自分が嫌いだった、されていやだったことを平気で目の前にいる人にしているとか思ったりする。あとから反省することもできそうだけど、それはやらないことにしてる。反省って、まるでいまの自粛みたいで、強制されている感じがする。そうじゃなくて、もっとこうしたかったな、次はこうしてみたいって前向き感じの振り返りをできるだけするように心がけている。

 

 それで結局どうすれば自分に影響を与えることができるのか。その立ち位置に居られるのか。それは関わりの中で生まれるのかもしれず、僕は僕の中にいるあらゆる自分にもっと影響を与えながら、誰が主体なのか、主役なのか、主語なのかも考えず、ただ全ての言葉たちを語らせて、影響し合うことが出来たらいいなと思う。ある意味で即興芝居をしている最中はその役が一人に固定されつつあって、だけど一人だと思いながら進行してもうまくいかず、あらゆる声が、質感が変化して、設定した人物とは明らかにずれてスライドして行く感覚がある。それは一緒に空間を共にしている人の言葉や情報から、全く別の自分を作り出している感覚だったりした。僕はその時三兄弟の真ん中だったが、末っ子が「おじさんにひどい仕打ちをうけている」と会話を始めた。暴力や女を連れ込み、その家にはいれず、はやくその家から出たいと。僕は末っ子役の男性が語る言葉から、大学生の22歳の、就活もして居ない、彼女と同棲を始めて一週間の男から、だんだん末っ子が語るおじさんへとスライドして、末っ子におじさんがしそうな言動や態度を振りかざしているようにも思える。なんだか僕の中で起こっているのはウンゲツィーファの演劇のような状態のようにも思えて、それをうまく説明もできないで居て、だけど、人間が、人が、存在して、語り出す感覚、性格が変わる、複数人の私たちの声があちらこちらで鳴り出すそんな感覚に至るのだ。

 

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 最近結局のところ自分で芝居をしてみたり、演劇を映像で見たりするのが楽しい。テレビのドラマでは満たしてくれなかった、自分の意識や感覚を満たしてくれるそんな感じなのかも。

 

watari-bouya.com

こちらはワタリさんのブログ。