いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

クワガタと演劇と諸々。

 足元にクワガタがいた。初めてだった。クワガタを子どもの頃に飼ったことはあるのだけど、それは買ったもので、落ちてるのは初めてだった。落ちてるって人間的な言い方だなと思うのですが、つまりふと足元を見たらクワガタがいたのでした。初めての光景。

 カワイイと思って簡易的な箱に移して餌をあげる。大根の葉っぱ。「もっといいものあげなよ」ってなりキューリを切ってもらいあげた。吸ってるんだか、食べてるんだかよくわからないけど、冷たくて気持ち良いのか、発見当初よりも動きが増えたので元気になった気がした。

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 昨日は心が動くような、若干の騒動が起こるも平常運行。何事もなくてよかった反面、ざわついたり、どうすんだこれ?って感覚にもなった。色々調べて、そこには基準があって、それが安心できるものなのかは不透明であり、結局は自分の感覚に逐一確認すること、その繊細さとか感度を上げてくことが自分への信頼や安心になるのだろうなと思うた。もしかしたら濃厚接触者かも?になった人は、濃厚接触者には該当せずな話。

 そんな話の流れでこの記事をシェアしてた友人とメッセで話してた。

www.newsweekjapan.jp

 近頃話題のイベントで演出担当や音楽担当の人が叩かれてるのが目に入ってきてた。人を罰する感覚ってどこからくるのだろうみたいな、その根源って何?って思ってた時に日本には死刑制度があり、それを無意識的に受け入れていることにゾッとした。監獄とか性とか踏み込んだ言葉で、感覚で話ができるのが最近はありがたい。

 体の中にいろんなテーマが渦巻いていて、それを言語化するのはすごく難しいが、そこに感覚としてどんな言葉があるのかを知りたい。

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 夜は8月後半にやる演劇の稽古をオンラインでやった。すごく良い時間だった。基本的には即興でその場を作るのですが、じゃあどんな状態でそこに居れたら違和感なく存在出来るのかを合わせてくみたいな。そこはやっぱり言葉を使う。「すごく自由ではあるが、芝居をしていて窮屈に感じる」と言葉にしてくれた人がいて、それはそのとき僕が感じていたことでもあって、僕は演じようとすると自由風ではあるがいつも内面が窮屈だったりする。それぞれが無理なく、自然に存在しながら、それでいて崩壊していない塩梅ってどこだろうってなったときにやってみたシーンはそれが演劇であるのだけど、音楽的であったり、詩的であったり、それぞれが自然な状態でいると混じり合ってないようで繋がりは途絶えずにあって、この感覚をもっと味わいたいし、作っていけるんじゃないかとワクワクして、すごく嬉しかった。

 前半の導入ではオーセンティックムーブメントでやっているワークを取り入れて進めてみた。その時間も好きな声や反応とかが僕の中にあって、少しずつ内側を触れ合っていくようなそんな実感を持てた。今回やろうとしてる演劇は、脚本のない演劇で、では何を元に作ってくのか?ってなるんけど、瞬間瞬間に外側であれ、内側であれ起きていることを逐一感じて、確認して、それらを出し合って、反応しあったり、転がったりしながら、作ってくみたいなそんな感じ。音楽なのかも。音楽演劇。

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 夜になってクワノスケクワタロウ、通称クワがむっちゃ元気に動き出す。そうかクワガタ夜行性なんやんて思うくらい元気に動く。入れてた箱から出てくるので、なんどか戻してたんけど、箱に戻すその行為がとても不自然に思え、玄関に移動して好きにさせたらすぐにいなくなった。野生のクワガタやしね。野良クワガタ。戻ってきたらいいなとちょっと寂しくなったけど、クワガタひっくり返すと結構ゾッとするなとも思って、おもて面は可愛いけど、ひっくり返すと足ウニョウニョしてて、ああ裏表ってあるよねみたいな、そんな複雑な気持ちとともに就寝したのでした。

  朝の音楽はシガー・ロス。小包装のお菓子をお皿に盛るのが演出的というか、土台を作ってるというか、そんなこと考えたのと思考中心の生活から呼吸中心の生活へ徐々に移行してる、そんな感じ。