いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

祈りみたいな、とか。

 久しぶりにこのブログに書いてみる。存在忘れかけてた。いや、時折思い出してた。タイトル変えてみた。「いめーじのなみともり」から「いめーじのなみもり」にした。丼ものみたいやね。牛丼食べたいなって最近ふと思うことあります。

 6月に展示をした。次は8月にあって今度は写真をメインにやりたくて、今はその準備中。あとは展示の空間で演劇もやる。いろんなことがちょっとずつだけど同時進行的に動いてて、楽しいし、面白い。多分前だったら嫌になってた気がする。こんなことできないとか、自分一人じゃ何もできないとか、それで決まり文句的に体調悪いとか気持ちが落ちてる、鬱っぽいとかそんなこと言ってた。今はいろいろ動かしながらなんだけど、自分はほとんど動いてないというか、そんな状態にしたいなと思ってやってる。無理やり動かないってことなのですが、燃料ない状態で無理やり動くんじゃなくて、しっかり蓄えて、動きとか流れとかを感じて、その時がくるのを信頼して動いてる。何もしないってわけじゃなくて、体を休めたり、心地よさを大切にしたり、そんな工夫をしてやってる。

 そうなると散歩が増える。今は体を動かすことが気持ちよくて、思いっきり汗かこうと決めて、汗だく必須の格好で散歩する。それで外の世界と目があったら写真を撮る。それが日課というか、ブームというか。

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 散歩した後シャワーを浴びて、久しぶりに駅前のカフェに行って本を読んだ。ずいぶん前に買った「いつか森で会う日まで」っていう田口ランディさんが文章を書いて山下大明さんの写真が載ってるやつ。ずいぶん前に本を人にあげたりして減らしたんけど、その時にもこれは取っておこうってなんでか思って、ずっと手元にあったんけど読んでなかった。数日前ふとレイチェルカーソンの「センスオブワンダー」が読みたいなと思って手を伸ばしたら、その隣に置いてあったのが「いつか森で会う日まで」だったのですが、「あ、懐かしい。屋久島行ってみたい!って思って買ったんだった」と思いだした。それで今日久しぶりに読んでたら今の感覚にすごく合う文体で、写真も良くて、アイスコーヒー飲みながら一気読み。といいながら本ってあまり読めないんだけど、これもやっぱり目が合う、感覚が一致するとかかすってくみたいな瞬間があって、そんなふうに読んでる。

では、祈りってなんだろう。

祈りって願いとは違うよね。

では祈りってなんだろう。

祈りについて、私はまだ言葉をもたない。

水の結晶の形は、なぜか私に、祈りを思い出させる。

この形は、祈りだ、と感じてしまう。

祈りが何なのかも、わからないくせに。

  この文章にドキッとして、涙が出て来た。体の中から溢れてくるようなそんな感覚。本読んでて久々だった。

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 きっと僕も祈りたいのだと思う。だけどそれがわからない。わからないけどなんかを作ったり、書き留めたり、残そうとする。それが自分なりの祈りだと思いたいのかもしれない。神棚には向かわないのだけど、そんな自分なりの祈り。