いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

雨もっさりと。

 思っていたよりも早く目が覚める。昨日の感覚が残っているのでスケッチブックを開いて線を引く。画面いっぱいに線をのせていく。縮こまらない。小さくまとまろうとしない。うまくやろうとしない。うまく描こうとしない。それよりも画面いっぱいに浮かび上がらせる。絵じゃない。絵を描こうとしてるところから離れてく。もっと純粋なそのままの線、状態に向かう。何か飲みたくなったのでチャイを作る。鍋に水を入れて、火をつける。生姜、カルダモン、クローブスターアニス、シナモン、紅茶の茶葉、きび糖を入れて一煮立ちさせる。部屋にスパイスの香りが漂ってくる。一度火を止めて蒸らす。何がともあれ、すぐに牛乳は入れないで、一旦寝かせる。なぜかこれはやるようにしてる。少し寝かせて、再び火をつけて牛乳を入れる。煮立たせないように少しだけ気を配りながら作る。昨日コンビニで買ってあったマフィンと一緒に朝のおめざにする。そんなわけで書き始めてるのが今。

 昨日から雨が降り続いている。ポツポツと心地よい雨というよりは、少し重たさをもった雨なきがする。気圧の影響かもしれない。数日前、水星の逆行が始まったからいつもより確認を大切にすると良いよって、教えてもらった。電車の遅延とか停電とか、なんでか重なってるみたいだった。何かに影響される。外側に出来事として起こる。その時に自分にできることは深呼吸することだと思う。からだが少し緊張してる、凝り固まってるかもしれないから、動かしてあげることだと思う。優しく自分自身と寄り添うことのように思う。丁寧に自分の内側の声に耳を傾け、静寂に身を置くことだと思う。どうにこうにもいかないときもあるのかもしれない。それでもいつもその場所に戻ることができる。忘れてるだけだ。深呼吸して歩こう。

 なんだか美術館の小さな窓が見える。小さな窓から溢れるひかりや、草木のダンス、雫。どれもこれも美しい。窓がそうさせてるのかもしれない。フレームが枠組みがその瞬間を捉えるのかもしれない。ではその外側に出たとき、世界がどこまでも広がったとき、どうなってしまうのだろう。どこに行ったら良いのか、どこに目を向ければ良いのか、どこに立ち、どこに行きたいのか。そういうことがわからなくなってしまうのだろうか。空間を設定したら良いのかもしれない。見えなくて良いのだ。自分の部屋を作る、窓を作る。そこから見ている。体がそうなる。体そのものが部屋で、目が窓で、そこからどんな光景を見るかを作りだすことができる。設定はできる。外側は移りゆく、変わってしまう。しがみついても変わってしまう。それでもそのとき、自分の体、部屋、窓から見える景色は好きに変えられる。枠組みを作る。建築家なのだ。だれでも家を建てることができる。自分の中に存在するための建築をし続ける。表面に現れることだけにとらわれず、それでも影響を受けながら、ああどうしようもないなぁって笑いながら、それでも自分の中にある生まれてくる振動、響きがあることをいつも忘れないこと。それも結局外側からの刺激なのかもしれない。内側と外側を分ける必要はないのかもしれない。今、目の前にある一枚の絵に心動かされ、離れられなくなっている。それは絵じゃないのかもしれない。存在そのままの絵、線。そして部屋がある。

 昨日は川村記念美術館に行ってきた。カラーフィールドの展覧会が見たかったのと、トゥオンブリーの作品も所蔵されていてそれも見たかった。グリーン車に乗り、人波にのまれることもなくかなり快適に行き来できた。白鳥とカモらしき鳥が庭園内で浮かんでたり、歩いてたりする。カモらしき鳥はわりかしでかい。帰り際にハクビシンらしき四つ足の生き物が遠くで魚をくわえていた。くわえたまま走り去った。そのとき、鳥たちは何も言わなかった。相変わらず歩き回ったり、浮かんでいた。四つ足の生き物は魚をくわえたまま林の中へ消えて行く。そのとき水面に魚がいることに気がついた。

 気づかずに目があった。一枚の絵だった。「うわ!」と声が出そうになる。なんだか絵じゃなかった。そこに人が生きている感覚になった。まだ生きているみたいに、そこに存在しているみたいだった。こんな絵を描きたいと思った。だけどこれは絵を描いていないのだろうなと思った。その感覚が欲しいと思っている。今、目の前にあるこの絵、この線、ここにあるこの感覚で線を引き、色を塗り、体を動かせたら良いなと思う。体の奥の方まで響いてきた。なんとなく笑ってる感じがした。笑われているなのかもしれない。「まだまだ全然やってないじゃん。もっとやってみなよ」って言ってる気がした。線は浮かんでたし、踊っていた。それなのに定着しているみたいで、そこにじっとしていた。だけど揺れていたのかもしれない。泳いでいた。だけど波一つ立っていなかった。それなのに波紋が広がっていた。何遍も何遍もその場に戻って見ていた。やっぱり僕の先生はトゥオンブリーだった。

 ひとつ大好きな窓がある。薄暗い廊下の先に一枚の小さな窓がある。そこから光が溢れている。草木と混ざり合ったひかり。そして雫が踊っていた。その窓に惹かれて歩いていると、一つの部屋がある。薄暗くて、よく見えないと思ったら、大きな絵が垣間見える。少しだけ見えて、一気にそちらの世界へ誘われる。部屋に入る。絵に囲まれる。熱を帯びた部屋。だけどとても冷たい感覚がある。冷静なのかもしれない。だけど熱を帯びていて、そういう境界の曖昧な中で腰掛ける。目を開いたり、閉じたりする。目の前が歪んだり、鮮明になったりする。繰り返す。記憶や思考に入っては、また目の前の現実に戻ってくる。現実から絵の中に吸い込まれる。腰掛けながら揺らいでいた。何かにしがみつこうとかそんなことはしなくてよかった。ただ素直な揺らいでいる状態で良いのだと思った。何も臆することはなかった。しっかりと揺らいだ時に、柔らかい軸が立ち上がってきた気がした。すこし批評的な目があった。「これくらいやらないでどうする?」って言われてる気がした。絵を使って部屋を作る、空間を作る。それは壁画だった。そこにエネルギーを充満させる。人はその中で何ができるだろう。何もしないで立ち止まりただ見ている人がむしろ絵になってた。

 自分はどの深さでやりたいのだろうと思っているのかもしれない。望んでいる深さみたいなところにいた人を見て、すごく満たされる感覚があった。満たされたことを感じた時に、やっぱり考え抜いてやらないといけないなと思う。だが、最終的にはいろんなことを手放して、何も持たずにそこにいようと思うのかもしれない。徹底して考える、自分を知ろうとする。感覚を立たせていくための作業みたいなことは常に必要なのだと思った。

 と言いながらも、軽やかな感覚でいれることも好きで、それはとても軽すぎるし、それにとても重すぎるのだと思う。両極端なそういう性質をどちらも認めていくことな気がした。どちらも自分の中にあることを認める。認めないうちに中庸とかバランスを求めても、両極が暴れ出す。居場所を失う。どちらも存在していることを認めて、その上でバランスをとる。何もないバランスは虚無なのだと思った。

 大根切ったら真っ青で僕の顔もショックで真っ青でした。今日はウンゲツィーファのワークショップ参加するー。楽しみ。雨もっさりと。