いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2022/11/18

 久しぶりにデジカメを持って散歩する。やっぱり感覚が違くて、距離感が近くなるというか、空間だとか風景として写真を撮っていない感じがして、それはそれですごく面白かった。夜だったっていうのもあるのかもしれない。

 なんとなく今、自分の性質みたいなものを改めて捉えている感じがしていて、柔らかいといえばそうなのだが、つまり優柔不断だったりもして、考えがコロコロ変わったりするのはなんでなんだろうと思ったりして、それってつまりどの周波数帯に自分が繋がってるかみたいなところがあるのかもしれなくて、といってもすごくいろんなところを行ったり来たりして、それは波なんだと思うのだが、落ち着きがないなと思ったりする。だからそういう考えをまとめるみたいなことや、決断するみたいなことが元来苦手なのかもしれない。思い返せば、何か仕事をするとか、海外に行くとか、なんかそういうときもいつも何か悩んでしまっていて、じゃあなにもかもを手放せばスッキリするのかといえば、一時的にはスッキリするが、根本的な解決には至らないというか、つまりそうやって自分を直そうとかしていたのかもしれないが、結局いつまでたっても優柔不断っていうのは変わらない気がする。それに、どれもこれも本当なんだと思うし、そうやって話を聞いてしまうし、それでいて聞きすぎて疲れてしまったり、気分が悪くなったりする。だけど、気分が悪いってことはわかったりするから、それはやめていいんだと思う。自分についてはよくわからない。例えば自分の話を聞いている時に、自分がどんな状態なのかうまく捉えることができないが、例えば人の話を聞いている時に、もう聞くのめんどくさいなとか、この人あれこれでこうだからとか、根っこ的な、そういうところを掴んで、その表面の話を聞いてると退屈して嫌になったりする。で、大抵嫌になってる時って素直でない時、本音を隠して相槌を打っている時のように思う。で、大抵のことがめんどくさいのだと思う。やりたくないことはできないし、つまり自分でやりたいって湧き出てこないとやれないので、周りに合わせた時点でもう何もやりたくないだと思う。

 そう、それでじゃあ優柔不断っていう部分を直さないでどうやって生きていくかという方法なのだが、ある程度の条件を事前に決めてあげるのはいい気がした。自分の心地よさで条件を決めていく。つまり嫌なことはできないので、やれません。とか、ここはできるけど、これ以上はできませんとか、そういうこと。その時にやっぱり、そんなわがまま言っていいわけないじゃんって言葉が出て来るんだけど、それでも感覚がやりたくないものをやりつづけると病気になるので、そこをグッとこらえて条件を提示する、その上で嫌われたり、お前とは何かすることは金輪際ないと言われても、それはそれでいいなと思うし、お互いのためにならないから納得になる気がする。何がともあれ、そういう条件を提示することが大事だなと思うのだ。

 なんとなく大事なのは処世術的なもので、自分の性質をどうやって世に知ってもらい、無理なく楽しく、一緒に仕事してくかみたいなことなのかもしれない。それがうまくいっていれば、人間関係に苦労しないだろうし、そういう人だよねって思ってもらえたり、楽なんだと思う。で、だいたいそういう自分のそのダメと思っている部分というか、隠そうとしていることは他人はもうすっかりわかっていて、きっと僕のことを優柔不断っていうことは関わっている人はわかっているだろうし、コミュニケーションに関してやることなすこと時間がかかる、その場で言語化するのが苦手とか、溜め込みやすいとかきっと知っているんだろうし、つまりそういう自分を隠して、理想のできる自分像をいつまでも追い求めるから苦しくなったり、嫌になってしまったりするんだろうなと思うのだが、決断できないのだったら決断できなくても生きていけるようにするとか、と言いながらもう少し決めてみるということをしたらいいのかもしれないが、決めたとて後ろ髪引かれる感覚に引っ張られてしまったりして、もっといい選択があったんじゃないかとか、もっと最良の選択ができたんじゃないかとか、そいうことを言い始めるのだが、それはきっともっと当事者同士で相談したらいいのかもしれない。だけど人はしっかり選ばないといけないし、素直に話せる人、話したい人は選ぶ権利があると思うし、それで伝えてみて、ダメだったらダメで納得だろうし、つまり結局自分の都合よく生きたいというダメ人間っぷりが出て来るのだが、それも結局、家庭環境とかもあるのだろうし、特に何かに苦労することなく、食事や大きな家があったこと、好きなものは好きな時に買ってもらえたこと、そういう甘えん坊っぷりがいつまでたっても治らないというか、自立できない自分をまた責めそうになったりするのだけど、だけどそういうおぼっちゃま的な側面というか、実際に昨日miiさんと昔の家の間取りとか生活を思い出して話してたら幼少期団地住まいだったmiiさんからするとわりかし、愕然とするサイズ感だったらしく、だけどそれは友達とは違うからどうしても隠していて、みんなと同じだよみたいなことがしたかったんだと思うが、だけど僕は当時やっぱりおぼっちゃまだったんだとなんか諦めがついたというか、それでいいじゃないかと思った。

選んできているんだとしたらきっと、そのおぼっちゃま的なことはとても大切なことだと思った。

2022/11/17

 昨日からお昼は太陽堂の新作雲呑麺たべようーと楽しみにしていたのだが、行ってみたら臨時休業だった。早朝マスター見かけたので、なにかあったのかな?とか話しながら、やっぱりラーメンな気分だったので静雨庵へ。ラーメン大盛りにした。miiさんは唐揚げ弁当セットにして、唐揚げ一つとご飯を少々分けてもらった。食べ終わって少し疲れたのでファミマでコーヒー買ってベンチに座って休んだ。なんか、戦争の話とかそういう話を少ししていた。昨日、ニュースに出てきて体が、胸のあたりがすごくざわついたのを思い出した。それでカフェにいた時もそういうことを思い浮かべて、例えば赤紙みたいなのがきて、それをきっと無視するだろうから、そうなった時に僕はどうなるんだろうと思った。そのままのたれ死ぬのか、撃たれてしまうのかとか、そういうことを考えて、今はなんか、レタスは土に入れると毎日しっかり生えて来るって書いてあったの思い出して、そうやって生きていけば良いのかとなんだかふと思った。最近は野菜を食べたい感じでよく食べてる。それで菜食主義みたいなことをするとバランス崩すので、いつもの食事にサラダをつけるようにしてる。野菜というかフレッシュなものが食べたいみたいな感じかな。だけど刺身とか、なま肉とかじゃなくて、果物とか生野菜とかそういう感じのものがいいなと思って食べている。

 そういえばこの前のダンスの時に、すごく何かを、この世のものではないものを見ているように見えた、みたいなことを言ってもらってなんだか嬉しかった。あ、そう見えてるんだ〜なるほど〜ってなった。なんというか憧れというか、想像力がある人が羨ましいなって思ったこともあったのだが、いや今も思っていたりするのだが、そういう風景みたいなものが正直何も見えていないんだと思う。内側の風景みたいなものを見れたら良いなと思っているのだが、如何せんあんまり見えていないし、だけどなんか見えてる気もする。

 暗がりの坂道を歩いていて、電灯がひとつある。黄色い花が咲いている。いくつも。電灯は柔らかい光で、緑色だった。黒い電灯、カラスがさっさと跳ねる。電線を歩く。空は明るい。雲がいくつもうねりながら並んでいる。そこに電線が一つ。自動販売機がひとつ。駐車場には満席の文字があって、歩く先には水たまりがあった。反射する建築物や木々、紅葉しつつある上空のひかりに目を細める。石のベンチ腰掛けて、子供の頃の間取りを伝え合って、今はない家のことを思い出している。無印のノートに青いペン。大きな家の中で寝る場所を探す男の子がいて、枕を持っている。大きなタンスに衣類や下着が入っていて、どこに何が入っているのか探すのが難しいし、少しタンス特有の木の匂いみたいなものが衣服についてしまうのが苦手だった。階段を登っていくとそこは最上階で、布地のソファー、青い色彩で地図のようなものが描かれたソファーに横たわって、朱色の冷蔵庫を見てる。そのときは床に寝転がっていて、初めての出来事に驚いたりした。

 そう、それであまりそういう風景みたいなもの、イメージのようなものを持ち続けることはできているのか、できていないのかわからないが、視覚的でないまでも、身体的な感覚として何かは捉えてるのかもしれないなと思ったりして、だからなんというか、絵を描いているが身体感覚的なものが浮かび上がっているようにも思えて、だから視覚的なものを作っているわけではなく、ただ手が動いているし、その筆を持つこととか、手についた絵の具とか、爪にこびりついたオイルパステルとか、鉛筆の硬さとか、その書き心地とか、そういう身体的な心地を確かめるために描いてるのかもしれない。なんかそれでも良いのかとも思うし、それでいいのかとも思ったりもするのだけど、だけどなんかこうやって続けられてるのはもしかしたら絵にダンス的な要素を感じられていたから、だとしたら、それもそれで嬉しいような気がした。だから絵を描いてるなんて言えなのかもしれないし、だけど紙やキャンパスに何か描いてるんだから絵なんだとも思って、だからそう、展覧会した時に、絵がダンスみたい的なことを、ダンサーの方が言ってくれたのを思い出して、だからなんというかダンスをなんやかんやで続けてるのはそういうことなのかなと思ったりする。かといって誰かに習ったりしてるわけでもなく、ただそういう踊りがある場に出かけるのは好きで、JAMとかそういうのもやっぱり行きたくなるわけだし、かといって身体感覚を扱うワークみたいなものも楽しいと思うわけだし、だからなんだろうか。ダンスがやっぱりどこにいってもあるなーと思うし、なんというか即興芝居やってみてやれなかったときにコンタクトインプロは今の自分でもできるって思えたあの感覚ってなんかすごく大切なのかもなと思ったりして、だからその頭らへんで言葉を交わすやりとりでなく、全身で、体で行われる交感的なことが、交歓であったりするみたいなことのように思って、じゃあダンサーのような体を持っているのかというとそういうわけでもなくて、なんというかダンスを通して行われる存在を感じること、光を感じること、なんかそれはとても幸福な瞬間だったりして、そして音楽はやっぱりいつもそこにあるなって思うのでした。

声はひかり、ダンスはいのり。みたいな。

2022/11/16

 日曜日、ダンスの公演無事に終わった。ダンススペース空の皆様と「Cinco Cinco」という作品を踊りました。ミゾイキカクの二人が見にきてくれて、すげーよかったととにかく褒められた。すごく受け取り上手な二人で嬉しい。終わった後の集合写真を見せてもらって、みんなすごくいい表情をしていたのがなんだか嬉しかった。各々が良い時間をすごしていたんだなと思った。初めて踊る人がいたり、親子だったり、流行病で出れない子が出てしまったり、前日になんか一悶着あったらしかったり、いろんなことがありながらだったが、集中して踊れるのはその場を作ってくれる、整えてくれる人がいるからだなーと思い、最近自分で企画して何事もやる機会が多かったので、なんて楽チンでありがたいんだって思った。関わる人が増えることで良いこともあるんだろうなと思った。それぞれが自分の感覚を大切にし、持ち寄り、それらを提供し合うみたいなそういう場は心地よいなと思った。それにあえて自分から首を突っ込みすぎないのも大事だなと思った。やりたいことに集中する。余計に手伝わない。気が向いていないのに手を出さない。そういう細かいところを自分自身と確認しながら作っていく。少しの嘘が、だんだん膨れ上がる。だからやりたくないことはやらない。確認する。それでいて必要なことならしっかり言葉を交わすこと。

 数日経って、日常に戻りながらやっぱり体は動かしたい欲求があってストレッチしたり、音楽流しながら家の中で少し体の動きを感じたり、流れてる意識を味わったりしながらそこにいたりする。人と一緒に踊ることはあるのだが、一人で踊ったことがないので、今度やってみようかなと思っている。ちょうどムリウイさんで小さなダンスが集う企画みたいのを募集してて、応募してみようかと思っている。どんな音楽だったらいいだろう、どんな時間だったらいいだろうとかいろいろ想像を膨らませてみるのだが、miiさんの作った音源で踊るのがなんだかしっくりきていて、なんだかこうやってまた新しいことをやれそうな感じがしているのがとても嬉しい。なんかそんな流れで、これからダンスと歌を、独演会で表現するみたいなことができたらいいなと思ったりする。自分の表現の場は自分で作るってなかなかいいじゃないかと思ったり、いままでどんなものだったらいいだろうと少し考えたりもしていたのだが、なんかそんな表現をしている時間を作れるといいのかもしれないと思った。と言いながらイマイチ創作に向かう感じじゃない側面もあって、と言いながら絵は描いてるんだけど、そんなわけなので図書館ぶらぶらしながら本借りる。神田橋條治さんの「心身養生のコツ補講50」と坂口恭平さんと斎藤環さんの「いのっちの手紙」あとダンスセラピーの本も検索かけたらあったので借りた。骨盤トレーニング的な、解剖学的な本も借りてみたのだがうまく読めなかった。解剖学の本読んだほうがええかなーとか思ったけど、全然あたまに入ってこないのでパラ読み。僕が読んで知識を蓄えなくてもいいのかと思った。ダンスするからとか体動かすからそういうことも知らなきゃと思うが、昔からそう言う類のものが全然覚えられなかったり、入ってこないので、向いていないのかもしれない。だけど坂口さんと斎藤環さんの書簡はめちゃめちゃするする入ってくる。とにかく水みたいに流れることが大切で、だから知識を蓄えること、とどめておくとことというよりも、創作へ向かう流れが欲しいのだと思う。そういえば高校まで野球をしていたのだが、やる気を出すのが難しかった。無理やり努力しようとしたが結局疲れ果ててしまった。好きなことではあったが、努力の仕方がよくわからなかったのだ。無理やりにでも、やる気がなくても、どんなに疲れていても、自分を奮い立たせてやらなくてはいけないと思っていたし、そうやってたが本当にただしんどいだけで、しだいに体が動かなくなってしまった。そんなわけなので本当によく寝てたし、寝てしまう自分をダメ出ししていたりもした。そういうのが20代も続いていて、本当に生きること自体に疲れ果てていたんだと思う。なんかそういうことを思い出した。だから何かこの脅迫的な世界から降りなくてはいけないと思ったし、そうやって生活している人たちに憧れたりしたのかもしれない。田舎に住みたいとか、スローライフとか、とにかくゆっくりできるようになりたいとか思っていたと思う。結論いまは東京から離れてだいぶゆっくりできるようになってきた気もする。環境を変えてもせかせかしている人はせかせかしているとおもうが、やっぱり自然が近くにあるのは僕的に重要だったんだなと思う。そんなわけなので、なんか湖の近くに住んだら、僕はどんなふうに体に影響があって、どんな表現になっていくんだろうとか興味があったりする。僕は表現することが好きなんだと思うし、それは小さい頃から好きだったし、だけど自分に合ったやり方みたいなものは自分にしかわからないわけだから、どこを探しても見つからないわけで、自分で見つけていくのって大事で、だからそのやる気が出ないときは体の中を流れていくような文体に触れると、創作の川が流れていくんだと思うし、そういうわけなのでこれから絵を描こうと思う。

争いから降りること。

2022/11/12

 わりかしスッキリとした感覚で目がさめる。ここ数日寝る時間が遅くなってたので、今日はゆっくり寝てから起きた。体は軽い感じがして、ストレッチが効いてる気がする。なんでもそうだが近道はなくて、ほんと日々続けること、ただそれだけな気がして、続けるにしてもいろんな思考が駆け巡ったりするのだが、そういうことはさておいて、何がともあれ、体が嬉しいか、喜んでいるか、そういうことが大切だから、めんどくさいとか、やる気ないとか、意味ないとか、そういう声はさておいて、心地よさの方へ委ねてくこと、信頼関係ってとっても良いなと思うのでした。そんなわけなので、洗濯物を回してる間に、昨日の残っていた味噌汁を飲んだ。大根が程よい食感でうまい。体も温まる。洗濯物を干して、珈琲を淹れた。ゆっくりとした時間を過ごす。とにかくゆっくり淹れるんだと、大坊さんが言ってたので、せかせかした時間から離れていこうとする。散歩するときもそうだが、最初はなんかすごくせかせかした速度で歩き始める。それはもしかしたら世界から抜け出す助走みたいなものかもしれなくて、だんだんと今の体のペースに戻る。それはすごくゆっくりゆっくりなペースではあるのだけど、すごく豊かであるように思う。それで時折、その社会の速度みたいなものに合わせて、かいくぐってくみたいなこともする。だけど呼吸は忘れないで、今のその体の速度と、呼吸との速度の違いを味わってみたりする。そんな時間を楽しんでいた。珈琲が入ったので、昨日の残っていたドーナツと珈琲とをにおぼんに乗せる。そんなわけで絵を描き始める。

 寝る前にmiiさんと話をしていて、結局イベントごとってこだわりがある人は赤字になることがほとんどな気がして、だからそこで黒字にするんだって躍起になる必要ないかもねーって話をしていた。他のことでやればいい。だからこそとことん好きにやりたいこと出来る気がした。せっかくの好きなことやるイベントなのに資本主義持ち込んだら元も子もない。じゃあ他にどんなことでお金動かしてくのが良いだろうみたいなことを話していたはずなのだが、あなたは歌うのがいいよ〜と、とても朗らかに言われた。あとマッサージとか言われた。後半の事務とかはあまり興味がなかったので聞き流した。なんの話だったけ。そうそうなのでやっぱり歌いなさいよーと言われるので、やっぱり歌うことは大切だなーと思って、当初の話とはまったく関係ないところに着地したりするんですけど、結局、人間的なその側面の、やりくりどうしようかみたいなのって、いわゆる表層に浮かんでいる、そういう心配とか不安とかを少ない意識状態の中で話していたりして、だからそういうところから、結局ウキッとしたり、ワクッとしたりするのは歌いなさいよーとかだったりして、それでいいんだろうなーと思う。真面目すぎるとそれは腐乱死体の香りがするって、誰かがそんなようなこと言ってた。うろ覚えだけどそうだと思う。真面目さって社会から生まれるものだと思う。そこから離れた場所で、それってつまり自分自身の心の動きとか、フワーッと広がる意識のことだと思うのだけど、そういうものが真面目さから埋れてくってことはあるんだと思うので、なので結局真面目に何かしようとするよりは、身体的なその羅針盤にそって動くことはとても重要だと思うのです。ある意味でそのことにめちゃめちゃ真剣だったり、真面目で、愚直なのかもしれない。社会のその正しさとか、道徳的なことにはそんなに真面目にならなくてもいいのだと思うし、自分のその体の動きともっと付き合っていきたいと思うのだと思う。そんな意味で、ここ数年本当に変わってきたように思うし、もっと出来るんだろうなって思う。思考や意識に気づいて設定していくことも大切だし、体自体を豊かに変えていく、そういう変遷を味わうことはとても楽しいことだと思う。

 今日はこれからダンスのリハーサルがあるので茅ヶ崎に行く。ここに至るまでにいろんなことが起きているのだけど、そんな中に自分の今のテーマみたいなものがある気がしている。全体にもあるのだけど、個人的な命題みたいなもの。このまえ"あとさき"って言葉が浮かんで、それって最近の僕の周りの人たちの、その周りにいた命がなくなっていくみたいなことが続いて、それでもその人たちの人生は続いて行くし、それでいてなくなったその者たちの生命も続いて行くのだと思って、その終わったり始まったりすること、それももしかしたら人間的な解釈であるようにもふと思うのだが、そういう、つらなり、みたいなもの、無くなったその前と後。いつもそこにある一瞬一瞬をなにか感じたいというか、味わいたいし、それが今の僕の中にあるテーマみたいなものなのかもしれない。そういう意味で、やっぱり祈ることについて考えるというか、手を合わせるとか、神社に行くとか、神棚にとかというより、存在として、声として体として祈ることが今僕には大切なことだと思う。

"忘れられたものたちのダンスは続いてる"寺尾紗穂さんの歌詞が浮かんだ。写真は川内倫子さんの展覧会の時の。好きだった場所。

2022/11/09

 皆既月蝕とやらがありまして、急に眠くて昼寝したりしたのですが、起きて散歩して海に行ったら人はパラパラいたものの夏の強い日差しとか、なんかギラギラした空気というよりは、もう少し静寂があるような、なんだか波も夏よりいくらか静かというか、そんな感じがして、振り向いたら月がすんごく大きくて、うわうわーとか思いながら写真撮ったりして、若干調子悪くなってるカメラをなんとか復旧しつつ、夜は皆既月蝕見ようと思って外に繰り出す。1時間くらい外で見て、ちょうど月と重なった段階でお腹が空いて、家に戻って牛丼の残り汁で卵かけご飯して、砂抜きしたあさりですまし汁作って紫蘇刻んで乗せた。部屋の窓開けたら見えることがわかり、なんだ寒い思いして上を見上げなくても、寝っ転がればバッチリ見えるじゃーねかってなって、床暖房入れて、布団かけて、なぜかmiiさんに敷布団をかけられたのだが、重みと温かみが抜群で、もはや敷布団かけたほうが冬乗り越えられるんじゃねーかと思いながら、部屋の灯りも消して寝転がって見てたのですが、なんだかだんだん眠気に襲われて、うつろうつろしながら空を見上げて、月たちが移動するスピードにあわわせて、窓辺に寄ったり、頭の位置変えたりしながらうつろうつろしていた。

 本当にぐっすり眠ったというか、やべえお風呂入らねばーなんて思ってなんとか体を起こせたのが23時ごろだったのだが、いつも寝てると思考を感じたりして、ぐっすりまでいかないのだけど、久しぶりにぐっすりの領域までたどり着いて、なんか死んでたみたいだなぁーと思って、なんかその影響力というか、やっぱり星とか地面の影響ってあるよなーなんて思うのだ。

 あなたは宇宙に行って戻ってきた。嬉しいような悲しいような、どうしたらいいかわからない感情だった。祈りについて考えたし、そのことについて考えざるを得なかったのかもしれない。それが当たり前にある場所だったし、それを受け入れることもまた難しかった。だから祈るなんてことはしなかったし、誰に向かって祈ってるのかよくわからなかったからやらなかった。普段はそんな風にやらないのに、いざ緊張した場面になると、どうか力をくださいとかそんなふうに神頼みしている。なんだかすごく恥ずかしかったし、だけどそれぐらい追い詰められていたのかもしれないし、じゃあいったい誰に対して祈っていたのだろう。結果につながらないことに、緊張が解けないことに怒ったり、現実は何も変わらないじゃないかと神を冒涜したりするのだろうか。だけど実際になにかを感じていたし、そこにある奇跡みたいな瞬間に出会っていたりして、例えば鼻の穴に蝶々が紛れ込んできたりするあの自転車に乗っていた時のことだったりとか、どこかの路地で何かその啓示というか、何かを悟った瞬間のその感覚みたいなものの名残みたいなものが、何を悟ったのかは覚えてないのに、それが悟りだったのかすらわからないのに、だけどなんらかの実感みたいなものは記憶していたりして、そうやって君は戻ってきたのかもしれない。決別というわではないのだと思う。ただ少し神格化しすぎていたり、特別に仕立てあげていたのかもしれない。そういうことがあるんだと思う。想像していたことと実際は違ったり、体は欲していなかったりする。機嫌が悪いわけじゃない。情に訴えかけたい訳でもない。ただ勘違いしていて、祈ることに憧れていたのかもしれないし、だけどきっとどこに向かっても祈らないんだと思う。きっとあの時、祈っていたのはそこにいる自分への励ましだったような気がするし、きっと神聖な場所で手を合わせなくても、神様は意地悪したりはしないと思う。バチが当たるんだとしたら、それすらも受け入れたらいいんだと思うし、そんなことはないんだと思う。だけどバチが当たるようなことはしないほうがいいと思う。自分の機嫌が悪くなるようなことはしないほうがいいんだと思う。私は神だってニジンスキーが言うことを知っているし、そうだったんだと思うし、きっと私は神なんだと思う。あなたも私も。

 一致する瞬間を見たときに、本当に細かく細かく、繊細に繊細に感じて、その瞬間に出会うのだろうなと思った。それは自分自身と世界と意識との一致なんだろうし、その瞬間というものが、ひとつひとつあって、そこにどうやって出会うかというのはいつも、いつでもまなざしというものが必要なんだろうなと思う。誰も邪魔したりしないし、きっかけはいつもすぐそこにあるんだと思う。距離を置かなきゃいけないこともないし、かといって近寄ることもない。すべての中で一致するその時があるんだと思うし、そのことにいつもワクワクしたり、楽しみにしていたりする。そのために言葉を交わしたり、交わさなかったりするし、体を動かしてみたり、立ち止まったりする。いつもどこにいったって自由な感覚を得ることができるし、いつもどこにいたって満たされた意識に焦点を合わせることもできるんだと思う。それでいてすぐに転がってしまって、あたふたとしているそんな時間もまた愛おしいんだと思うし、動きたくない犬は信号が変わってもずっと寝そべったままだから飼い主は引っ張ろうとするけど、結局一緒に立ち止まるんだと思う。

フレッシュなサラダを食べよう週間です。

2022/11/03

 白菜を千切りにして塩まぶして揉む。しばらく置いておくと水分が出てくるので水を切って、また揉んで、また置いておく。昨日作り忘れた水餃子の下準備をする。結局ダンスに行く時間になったのでそのまま放置して、今日は作らないかもなーと思ったけど、帰ってきて作った。白菜かなり多めだったので少しあっさりな感じになった。包みながら食べてた。少し味も整えながらできるから一石二鳥な感じ。水切った白菜を改めてみじん切りにして、豚のひき肉、ニラ、生姜、塩コショウ、料理酒、ごま油、醤油。など調整していれる。

 来週にあるダンスの稽古だったのだが、最近、指定された人の即興の踊りを真似る時間があって、それがなんだか面白いなと思った。すんなり体に入ってきて、いつもと違う動きが生まれてたりして、それでなんとなくそのままの感覚をなじませて動き出すと、自分の動きになって元に戻ってしまったりする。出入りみたいな面白さがあるんだなと思って、真似てみる中で、その人が味わっているであろう感覚だとか、イメージだとかを体験している感覚になる。そういえば少し内臓が、お腹のあたりが重たいというか、物悲しい感じがあって、急に虚無感に襲われるような、そういう瞬間がふとやってきたりするんだけど、だからあんまり調子よくないなと思いながら午後の時間を過ごしていたのだが、踊っているとそのあたりはあまり関係ないように思えた。むしろ体に居れる感覚もあって、ああこれくらいでちょうど良いのかもなと思った。だいたい疲れている時って人間関係だったりして、それっていざこざとかがなかったとしても普通に生活している中で、自他が混じりすぎて訳がわからなくなってしまう時ってある。なんだかそういう距離感みたいなのを、少し遠くにしようとすると、物悲しさみたいなものがあるのかもしれない。一致したいのかもしれないが、いつまでたっても一致しないこともあって、一致していることがつまり、分かりあっていたり、感覚を共有しているような気になったりしているってことなんだろうと思うのだが、それが果たして本当に何もかもが一致して、溶け合っているのかというと、確かにそういう感覚を味わっているし、だけど一向に溶け合えないときに、そういう空虚感みたいなものが訪れるのかもしれなくて、だけどそれはただ人それぞれにある距離感だとか、性質だとか、思考だとか、そのときのリズムだとかで変わってくることだったりして、だからそんなに真面目にならなくてもいいんだろうし、それでいて埋まらない距離みたいなものもあっていいんだろうなって思った。

 すいめんが終わってから作った動画に感想をもらって、それはとても嬉しい感想だったり、なにか受け取ってもらえているように思えるもので、写真や音楽、もしくは動画なんかを無作為に組み合わせて、何かのイメージや空間が立ち上がるようなそういうものを作ることはこれからして行くんだろうなと思ったし、何か知ってるみたいに、何か間みたいなものを測ったりしていてい、なんだかそういう感覚の使い方が面白いし、集中できることだったりするように思った。少しデジタルなことも手をつけるのもそれはそれで楽しいのだろうなと思うし、興味が向いたものはどんどんやったらいいんだと思う。それで昨日書きそびれた川内倫子さんの展示はすごくよくて、食い入るように作品を見たり、聞いたりして、なんだかやっぱり間みたいなものをすごく感じて、日々のストックから選ばれる、再構成されたイメージみたいなものがすごく心地よく、ああこれなんだって思える時間で、とにかくもっと観てたいなと思えるそういう時間だった。内藤礼さんの展覧会もそうだったのだ、身を置く度に何かが変わって行く、劇的にも、なんでもない日常にも、特別にも、なんの変哲も無いものにも変わりえて、そこにある体とかイメージとか、そういうものを味わう、感じれる、んだと思って、あまり言葉がうまく回っていかないのだが、なんだかすごく良かったのだ。

 理解者って本当に数えられるくらいなんだろうなって思えるし、一人いるだけですごいことなんだろうし、創作ことでコミュニケーションをしようとしているんだろうし、一般的な会話がうまくいかずわざわざ落ち込む必要はないんだろうなって思った。なんだか少し、会話だとか、やりとりがしっくりこないときに否定的なことが囁かれている、それはだいぶ減っていると思うが、まだ微かにそういう部分があって、ああいるんだなって思って、だからなんだってわけではないのだが、いるなーっていうのはわかっていて、だけど微かな感覚だったりするからそのまま流れてしまいそうになるのだけど、流してしまうというよりは、一度手にとって眺めてみることが必要で、そこにはもっと素直で無理していない、気があっているというか、滞りなく流れているような感覚が欲しいなって思っているのだろうし、なんだか眠くなってきたので、お風呂に入って早く寝ようと思う。

揺れていたり、風が吹いたり。

2022/11/02

 東中野にある驢馬駱駝さんに12月にあるデカルコマニーの下見。即興とダンス音楽などで作る舞台みたいな感じかしら。驢馬駱駝さんすごく久しぶりに行ったのだけど、素敵な空間だった。螺旋階段ができてた。屋上まで繋がっているらしい。何年か前にウンゲツィーファのさなぎを見に行って以来で、その時ってこんなに活動していなかったから、あの時見ていた場所に、自分が身を置いて、作っていくのかーと思うととても嬉しい気持ちになった。その場の表現だけじゃなくやっぱり空間も少しだけ手を加えたいなと思った。

 下見が終わってからオペラシティでやってる川内倫子さんの展覧会へ。新宿駅から歩いて行った。久々に歩く都会はなんだか殺伐としながら、ビルが鬱蒼としてた。だけどコンビニとかの接客の対応って東京のが丁寧な気がする。数年前まで当たり前のように歩いていた場所が少し不思議な、だけど見覚えのある場所だったりして、いろんな記憶が蘇ってくる。一ヶ月だけ働いた営業の会社。確か西新宿にあった。特にしたい仕事だったわけじゃないのだが、正社員にならなきゃと思って働いてみたらやっぱり続かなかった。成績は案外よくて最初の一ヶ月と言っても、この一ヶ月だけだが、たしか5件くらい案件取れて、なんかホームページ制作の営業だったのだけど、ボーナスみたいなのも多少なりとも入った記憶がある。ただ、社内の空気が悪すぎて重たすぎて、1ヶ月も経たないうちにとにかく眠気と緊張がひどすぎて、続かないなと思った。ある日、急に上司的な人に呼び出されて怒鳴り散らされて、体調的にも続けらんないなーと思ってたのですぐにやめた。やめたら雪崩のようにやめてく人がいて、感謝された記憶がある。よくぞやめてくれたみたいな。ホームページは5年間のリース契約みたいな感じで、つまり5年間は料金が発生し続けるらしいのだが、あんまりもはや詳しくないのだが、つまり会社がなくなっても、ホームページがなくなっても、料金は発生し続ける仕組みで、怪しいなとは思って、だいたいなんでよくわからずに入ったのだろうと思うのだが、とにかく正社員にならなきゃとなんでか必死だったのだけど、結局その会社は数年後潰れたみたいで、詐欺だなんだと書かれていた。本当にそうだと思う。

 よくオペラシティの前を自転車で通過していたのを思い出した。新宿とか原宿に行くときに自転車で通過してた。斜め前の吉野家を見て思い出した。一人暮らしと言っても誰かと住んでたりしていたことがほとんどで、純粋に一人暮らしをしたのは高円寺から20分くらい歩いたところにあるアパートでもはや野方とかそっちの方なんけど、風呂場に虫が大量発生して嫌になって、確かそこからだったかそのあと転がり込んだルームシェアしてた目白のマンションからだったかで、兎にも角にも自転車でよく通ってたところにオペラシティがあるんだと思った。当時はそういうものに興味が向かなかったというか、そんなことよりもぐちゃぐちゃした感情が重たくのしかかっていて、自分は何がしたくて、何がしたくなくて、何が好きで何嫌いなのかもよくわからなくて、とにかく苦しかった。週5でラーメン二郎とか家系ラーメン食べててかなり太った。体が重たかったので、派遣で働いてた家電量販店の休憩中に飲んでいたおそらく糖分たっぷりであろうコーラフロートをやめて、水生活にしたら体がすごくすっきりしてきて、ああこっちのが気持ち良いなーと思ったのを覚えてる。でもラーメンは好きだったからよく食べてた。いまも結構食べる。当時、東京に居場所を見つけられなくて、よくカフェに駆け込んでた。小さなテーブル一つの空間に身を寄せて、コーヒーを飲んで、はぁっとため息をついて、ノートや手帳、本を出して、そのまま本の世界に没頭するのが好きだった。そうといっても当時は自己啓発本ばっかり読んでた。とにかく自分を変えたかったんだと思う。辛かったし苦しかった。

 東京に行くとそういう20代のころの苦しかった記憶が蘇ってきたりする。希望を持てずにずっといた気がするが、それなのに変に前向きになって夢を見つけたとか行ってカンボジアに行ったりするわけですが、いっときのテンションはすぐに転げ落ちて、そのまま体調崩して1日入院、早く日本に帰りたくて、ホームシックになって帰国。だけどカンボジアに行ったおかげで今織物してたりする。だからあの時の謎のテンションも捨てたもんじゃない。だけど当時の人間関係の築き方は本当にたくさんの人に迷惑をかけていたんだろうなと時折思う。話を聞いてもらっては聞き方が悪いとか、体調が悪化したとか直接は言わないまでも文句言ってた気がする。そういう意味で本当に態度の悪い、性格の悪い人間だが、それでもなんだか必死で、多分遅れてきた思春期みたいなものだったりするのだとおもう。僕はほとんど反抗期みたいなものがなかった気がする。ある意味では扱いやすいし、いい子だったのだと思うが、その当時の抱えてた苦しみはいつまでも抱え続けなくてはならなくて、そういう行き場のない感情や衝動みたいなものをどう扱ったらいいかわからず、どうしようもできずに投げつけていたんだと思う。

 それでもそういう自分を否定しなくなったというか、そういうどうしようもなかった部分があることを許せるようになった気がする。生きるために必死だったんだと思うと、そういう自分を幾度も抱きしめて大好きだよって言ってあげたりするのだ。

展覧会のこと書こうと思ってたのだけどね。