いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/04/30 no7

 いつも誰かからの連絡を待っているような気がする。と言っても今ケータイ持っていない。数年前壊れて、行動範囲がほぼ鎌倉だけだったから持たなくていいやと思ってやめてみた。だけどバソコンはあるから連絡はパソコンを通して取ってる。

 パケット制限っていうのがあり、だいたい上限に行ってしまって月末は連絡がとれなくなってしまう。中学生の頃だ。当時の彼女とメールしてたけど上限に達してしまって連絡が取れなくなった。そのタイミングで熱が出て学校を休んだ。枕元にケータイを置いてるけど鳴らないし、何度センター問い合わせしてもメールは受信できない。これはよく思い出す光景で、まだ家の中が変わってしまう前のフローリングに布団を敷いて寝てる時の、大きな収納に納められたテレビを見ている時の、立ちくらみがしてそのまま意識を失って掃除機に抱きついていた時の、暑中お見舞いを嫌々書いている、泣きながら夏休みの宿題を終わらせようとする、ハイパーヨーヨーを顔にぶつけてふてくされる、遊戯王カードが棚にしまってある、誕生日に天地創造っていうスーファミのソフトが隠されていた、そんな部屋のこと。

 中学一年生からケータイを持って、連絡の手段を持ってその時からずっと誰かの連絡を待ち続けている感じがしてるのだ。実際に誰かから連絡が来ると喜んでいる自分がいる。だけど、待っても待っても連絡は来ないのだ。一体誰からの連絡を待っているのだろうと思ったりする。

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 それで昨日は即興芝居のオンラインのワークショップ4回目の参加だった。いざ芝居が始まると、連絡を待っている自分ではなくて、妙に積極的に相手に働きかけようとする自分がいる。だけど芝居中はヨガの先生から連絡が来て喜んでいる私がいて、次第にやることなすことエスカレートしていく。だけどどこか気を許せている自分であるように思えてもいる。気を許せる人に見せている自分がそこにいるような気がして、少し開放的な自分になっている。この時は誰からの連絡も待っていないし、夢中でその場にいて、子供みたいに楽しんでいる。むくむくと起き上がる空間が心地よい。そこに至るまでにうまくいかないこともあったりする。だけど最終的に、ここにいようと決めて、やってみると思いがけず没頭している自分とか、影響を与えようとする自分とか、体の感覚に意識を向けようとするがお腹が痛い自分とか、呼吸している自分とか、それが自分たちを操る私がいて、私を元に動かされてたりもして、さらに私に指令を出す一心同体な私たちがいる。

 偏見が強いと思いながら、だんだんとそこからも離れられるのは心地よいなと思える。すごく偏った物の見方をしていると思う。自分の経験を相手に投影していることがある。だけど、そこから抜けて人柄に触れ始めると、そこからも逸脱できる感覚があって、その時に喜びを感じる。もっともっとより深く関わりたいと思える。それは相手に対してであるように思えるが、結局はどんな自分ともより深く関わり続けたいという欲求であるように思う。

 そうそう自分から連絡をする感覚っていいなって思った。待ってるんじゃなくて自分から声をかける。それは他人対してというより自分に対してかもしれない。連れ出してくれる、誘われるのを待ってるんだから、遊びに連れ出してあげるのは自分自身なんだろうな。

 今日は養殖じゃない焼き鮭と筍の味噌汁作るー。これからご飯。

note.com

 今日はnoteにも書いた。書くのも自分を遊びに連れ出してあげることの一つなんだろうな。絵も、歌も、踊りも、芝居も全部自分を遊びに連れていく。そんな感じ。そういえば、何ヶ月前かに陶版作ったんけど、まだ焼けてないんかなー。密かに楽しみにしてる。ものを欲しいっていうか、作って満足しちゃってるんけど。笑