いめーじのなみもり

Koji Mizoiの日記帳。

2020/05/04 no12

 子供の頃なんでも家にあったということをふと思い出した。大きすぎるくらいの家、子供部屋、釣り道具が欲しいといえば買ってもらえた。結局一度も釣りに行くことはなかった。ゲームも欲しいといえば大体買ってもらえた。ハイパーヨーヨーが欲しいといえば買えたし、遊戯王カード、ポケモンカードが欲しいといえばお小遣いもらえた。ガンダムプラモデルとかミニ四駆とかビーダマンとか、コロコロコミック、ボンボン。ローラーブレード、自転車、サッカーボール。野球がやりたいといえば野球の道具、野球を始めてバッティングセンターにも行きたい時に連れて行ってもらえた。父に言えば何でも叶えてもらえた。だけど何か足りなくて、どれだけ持ち物が増えても、叶えてもらっても自分が満たされた感じはせず、例えば感謝が足りないとか、自己肯定感が低いからとか、本当に好きなことができていないからとか、本当にこの人生でやりたいことに出会っていないからとかいろんなことを堂々巡りしてみた。どこかで努力が足りないと思って、努力を強いられる環境に身を置くところがあった。人と喋りたくないのに接客業や販売の仕事をしてみたり、だけど社交的に見られやすいからウケは良くてそれなりに出来なくはなかったけど、だんだんストレスが強くなって、お客さんと喋ることや働いてる人と喋ることも苦痛になった。自分が興味のないものを売ったり、むしろ必要のないものを売って、経済をただ回しているその一員になっていることに自己嫌悪したりして、不満とか愚痴とかそんなことが募っていった。だけどそれを誰かに相談したり、解決しようとしたりもせず、黙り始めて、結局最後は爆発してしまう。それか無言になって、喋れなくなって欝と言われる。自分がいけないのだから、自分が変わらなくちゃいけないと思っていたがどうやらそうでもないらしい。

 なぜか自分が万能な人間で、なんでもこなすことができて、才能に溢れていて、何かすごいことをするために生まれてきたと思っている節があって、これは本当に子供の頃から思っていて、自分はどこか特別というか、何かを作り出す人間だと思い込んでいる。だけど、その万能感から脱落することがなんどもある。それが無言であったり、言葉を失うことであると感じている。自分の持っている言葉が必要とされない場所で、無能で、必要のない人間でと思い始める。文字通り、自分の言葉が必要とされない、つまり自分が中心になれないならそこにいる必要がないということで、第一僕の言葉を存在を大いに感謝してくれる人がいて、そこで思う存分自分の能力を活かせばいいのだから、どこでもかしこでも頑張る必要はないのだと思える。ただ自分が飽きている、退屈しているだけなのだ。じゃあ一人で居ればいいのかというとそういうことでもないらしい。人からの刺激が好きで仕方ないのだ。言葉を交わしたくない時は踊ればいいし、言葉を使って楽しみたければ芝居をしたらいいのかもしれない。そう言いながらこんな風に書き始めたり、絵を描いたりする。注目されたいからそうしているのだと思う。

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 坂口恭平さんの躁鬱大学の記事が本当に良い。自分が躁鬱であるのかどうかよくわからない。だけど病院に行くと躁鬱と言われるからそうなのだとも思う。浮き沈みの自覚はずっとある。だけど薬飲まなくても何とかできる。できなくはないって感じだったし、無理な時もあった。結局薬飲まずに死なずにやってる。漢方は飲んでた。だけどしばらく休んで生活していたこともある。そういう時は素直に休めばいいんだとも思った。今は病院に行ってない。浮き沈みは自分の特徴なんだと思う。大体心地よくない時は本当に鬱になる。その場にいられない。言葉を失う。喋れなくなる。だからすごく良い目安になる。体質が嘘をつけない。ものすごく素直なのだと思う。そう思うと最近浮き沈みの波は前より減ったというか、あるのだけど上手く乗りこなせているようにも思える。心地よいことする、我慢をしない。思ったことはできるだけ留めないで言うとかも効果があるのかもしれないし、それよりも自分の日課があるから外で何があっても何でもいいやと思っている節がある。現実に対してそこまでやる気がないのかもしれない。それよりも絵が描きたいとか、芝居やりたいとか、現実とは別の空間で何か自由なふるまいをしたくなる。

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 現実と空想は別でもなく切り分けることもできないし、かといってかけ離れた何かでいようとすることは居心地が悪いと感じる。お風呂はいったら色々思い浮かんで書き出してみた。自分に近いことを書こうとすると良く見せようとしたりして検閲が入るので、とりあえず、検閲せずに書くでした。